建築家・山口文象、今となってはその名を知る人はそう多くはないだろう。しかし、彼こそ民族教育を語るうえで欠かせない逸話の主人公として、末永く語り継がれるべき人だと思う。今年は朝鮮大学校の小平移転50周年になるが、東京朝高の一隅でみすぼらしい木造校舎から出発した朝鮮大学校が、名実ともに民族教育の最高学府として大きな発展を遂げたのは、ここ小平の近代的校舎に移転してからのことである。それは祖国から送られてきた教育援助費の賜物であるが、実際に新校舎を設計し竣工させるうえで決定的な役割を果たしたのがほかならぬ山口文象である。
中庭を囲むように設置された研究棟・図書館・厚生棟・事務棟、そして打放しコンクリートによる柱と梁のグラフィックな構成は建築物としても高く評価され、「建築年鑑賞」を受賞したことはよく知られている。いわば建築のベスト・オブ・イヤーであるが、それが朝鮮大学校に与えられたことは一つの事件といえる。けれども、その設計者が山口であることを想起する時、驚くにはあたらない。というのも、彼は日本建築史上に大きな足跡を残した人物で、例えば一世を風靡したドラマ「君の名は」の舞台となった数寄屋橋は、山口の20代の作品である。ゆえに、むしろそのような人が朝鮮大学校の設計を行なったことのほうが驚くべきことだろう。「現代日本建築家全集(11)」(三一書房)でも、「朝鮮大学校は建築の機能を純粋に昇華させた建築として、われわれの胸中に永遠の珠玉として残る作品であろう」と書いているが、それはどのような経緯で生まれたのだろうか?
在日同胞の願いをかなえるために、祖国からの教育援助費によって朝鮮大学校の新校舎が建設されることになったが、当初から暗礁に乗り上げていた。それは用地取得さえままならなかったからで、うまくいっていた話も朝鮮大学校を建てるということがわかると水泡に帰した。そこには根強い民族的差別と日本当局の妨害があったことは想像に難くない。
その時、朝鮮教育省のある要人が、学生時代の友人である山口文象に相談してはと伝えてきた。山口は期するものがありそれを承諾、自身が代表を務める総合建築研究所(RIA)の若い所員たちに協力を仰いだ。もし、これが公になれば将来、さまざまな面で自身に不利な状況となることは目に見えている。それでも、彼らはそれに応じた。
山口らはわずか2カ月で設計を終え、「共立産業トランジスター会社」工場建設の名目で用地を取得した。そして、白石建設に施工を委託、浅草の親和銀行で換金された教育援助費をいったんRIAに持込み、業者への支払いに当てた。これら、すべてのことを秘密裏に行ったというのは当時としては奇跡に近いものがあったが、山口は戦前には社会運動にも参加しており、その時の経験が活きたのだろう。
「大変なことやったね」
そして、1959年6月13日、ついに竣工式を迎えた。その時の様子を川添登「建築家・人と作品」(井上書院)は、次のように伝えている。
「6月10日から三日間、日本全国から代表数千人が東京の共立講堂に集まり朝鮮総連の大会が開かれたが、その最終日になって、全員明朝10時に中央線国分寺駅前に集合するという通達があった。その翌朝、国分寺駅長をはじめ、その周辺の人びとは時ならぬ数千人の朝鮮の人たちが、赤旗を林立させて駅前に集合したのをみて、何事が起こったかと驚いた。だが、その数千人の人びとも、自分たちが何事のために集まったのかを知らなかったのである。しかし、彼らは整然と集合し、やがて〈共立産業トランジスター会社〉の現場管理を担当した山口の実弟山口栄一が準備した10台のバスに、彼の指揮に従ってつぎつぎに乗せられ、驚く市民たちの間をぬって1台、1台と去っていった。
バスから降りた人びとが見たものは、広い敷地に建てられた鉄筋コンクリートの立派な建築であった。見上げれば屋上に北朝鮮の旗がひらめき、入口には彼らが夢に見た、〈朝鮮大学校〉の文字が書かれていた。朝鮮の人びとは、異国にあって祖国の土を踏んだ感激をおぼえたであろう。しかし、それもはっきりと見えなくなってしまった。だれの目にも涙があふれでてきたからである」
むろん、山口もあいさつの壇上に立ったが、彼は言葉少なめに日本人と朝鮮人が仲良くしていきたい、ただ、そのことのためにこの建築を作ることに協力したと述べたという。実は、この逸話には後日談があって、当時の外務大臣で山口が大日本精糖の工場を設計した際の社長であった藤山愛一郎はある会合で、山口に向かって一言次のように語ったという。「君、大変なことをやったねえ」。
次世代に語り継ぐ
筆者が山口文象の名前を知ったのは、著名な技術史研究家である飯田賢一の著書「人間と科学技術」(近代文芸社)によってである。そこには簡単な評伝とともに前述の川添登の著書が紹介されていた。すぐに東京神田の古書店街に出向きその本を入手したが、一読して胸が熱くなった。山口の活動に対し、そして、それを文章にした人がいたという事実に対してである。残念ながら、日本人と朝鮮人が仲良くしていきたいという山口の願いは実現するどころか、昨今はそれに逆行する出来事ばかりである。それでも在日同胞にエールを送る日本の友人たちは決して少なくはない。山口文象のような先駆者の熱い思いを糧として、今こそ朝・日友好の絆をより強くするために奮闘する時なのだろう。
50年前のその日、同胞たちは裸足になって校舎の屋上に登り、祖国の空に向かって深く頭を下げたという。筆者もまた大学の教壇に立つ者として、学生たちにその思いを伝え、自己に課せられた使命を果たすべく決意を新たにしている。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)
1867年アメリカのウィスコンシン州で生まれた。彼が育ったスプリング・グリーンは大自然に囲まれた場所であった。彼独特のアメリカの自然と調和した一連の住宅建築[プレイリースタイル(草原様式)]はここでの経験からきたものである。生涯にわたり800以上の建築を手がけた、アメリカを代表する建築家であり、代表作にグッゲンハイム美術館、ジョンソン・ワックス本社ビルなどがある。
また、浮世絵のバイヤーなどでも知られ、日本とのつながりも深い。
01. フランク・ロイド・ライトと日本
まずライトが日本に対する憧れというものを持ったのが、1893年シカゴにて行われた「コロンビア万国博覧会」での日本館-鳳凰殿-である。そして、浮世絵のバイヤーであり、また鑑定家としても一目おかれているが、いつ浮世絵と出会ったかについては、いまだに謎に包まれている。
その後、1905年3月から5月の間、ライトは日本を訪問している。そして、日本から帰った時にライト夫妻(妻:ママー・チェニー)はたくさんの浮世絵と日本住宅の詳細な模型を持ち帰ったようである。表向きは「浮世絵を追って」のことだったようであるが、数多くの建築を視察したことも事実である。その証拠にその後のライトの多くの建築は、日本の伝統建築に影響され、酷似したものが多い。下に一例を示す。
左/日光東照宮の権現造りの平面形,1634年
右/S・C・ジョンソン管理棟の平面,
ウィスコンシン州ラシーン,1936年
<「フランク・ロイド・ライトと日本文化」より>
浮世絵の収集仲間の一人にフレデリック・グッキンがいる。1908年には、彼とライトの企画により、シカゴ美術館での浮世絵の展覧会が行われている。また、彼が浮世絵収集以外に、ライトを帝国ホテルの委員会に紹介した事実はあまり知られていない。
http://www.happycampus.co.jp/docs/983432382101@hc05/4506/
ヘミングウェイやピカソなど有名な小説家や芸術家も使っていたと宣伝することで、Moleskineは成功を収めている。
硬い表紙と十分なページ数、閉じるためのゴムバンドが特徴のMoleskine社のノートは、ファンから熱烈な支持を得ている。コミュニティサイトFlickr内のコンテンツ「Moleskine: One Page at a Time」には2855人が登録しており、自分たちが装丁したMoleskineの写真をアップロードしている。イリノイ州Nilesに住む芸術家で「ドキュメンタリー写真家の卵」でもあるArmand Frasco氏は、Moleskineファンのためのブログを立ち上げ、「すべてのノートは平等に作られていない。Moleskineは私をとらえて離さないものではなく、私の生き方そのもの」と語る。
一つの手帳専門店がどのようにして、すべてのマーケティング担当者が夢見るように、消費者の欲望をかき立てることに成功しているのだろうか? イタリアのメーカーであるMoleskine社は、文学・芸術にかかわってきたその歴史を強調し、購買層にと据えた、流行発信源となるクリエイティブ層の人々にあらゆる機会を利用して訴求している。Moleskine社によれば、ゴッホやピカソ、ヘミングウェイも同社のノートを使っていた。同社の製品を使えば、自分が次のピカソであるかのような気持ちを持ち主が抱くことも理由として、人気を集めている。Moleskine America社のMarco Beghin社長は、「誰もがクリエイティブな気分になる」と言う。
不況にあっても、こうした特別な気持ちを味わうために人々はお金を出す。今日、作家志望者や芸術家、大学生は、表紙を閉じるためのゴムバンドが特徴的なMoleskineを手に入れるため、高いものには17ドルも支払う。これは大半のペーパーバック(文庫本)を少し上回るくらいの値段。これまで見る限り、Moleskineのノートは景気後退の影響を受けないようだ。Beghin氏によれば、「収益性が極めて高い」同社の昨年の全世界売上高は2億1000万ドルと、2007年実績から14%増加した。製品ラインアップは133に上り、バンドの色の違いによって種類分けされ、ボツワナやマレーシアなど58カ国1万7400カ所で販売している。
Moleskineは元々、フランスの小さな家族経営の製本業者によって手工業で作られ、パリの文具店で販売された。この製本業者による生産は1986年に終了したが、ミラノの小さな出版社Modo & Modoによって2007年に復刻した。このノートを使っていたイギリスの紀行作家Bruce Chatwin氏(代表作は『Anatomy of Restlessness』や『ソングライン』)が、お気に入りの小さな黒い一冊に付けていたニックネームにちなんで、Modo & Modo社はノートをMoleskineと名付け、イタリア国内で販売を始めた。
2006年秋には、非公開投資会社SG Capital Europeが6600万ユーロ(8310万ドル)で、Modo & Modo社の株式75%を取得した。残りの25%は、Modo & Modo社の創業者であるFrancesco Franceschi 氏と、Mario Baruzzi氏および現在の経営陣が保有している。
Staplesといった大規模小売店では販売しないことで、Moleskineは、At a Glanceなどの庶民的な手帳メーカーや文具メーカーとは一線を画そうとしている。Moleskineは2006年に米国に進出。ニューヨークの流行発信地Meatpacking Districtに事務所を開き、Art Directors Clubや近代美術館、Tribeca Film Festivalといった団体に向けた特別仕様のノートを作り始めた。
米国の現代芸術に携わるクリエイティブ層の人々に広めるため、Moleskine社は、作家のDave Eggers氏や建築家のMichael Graves氏など計70人の音楽家や芸術家にノートを提供し、仕事に使うよう依頼した。そして、使い終わったものをニューヨークのArt Directors Clubに展示した。
Moleskine製品は長年にわたり、Barnes & Nobleをはじめとする書店で売られていたが、Moleskine社は昨年、米国内の小規模なギフトショップやセレクトショップ、文具店などでの拡販を目指し、デザイン性を重視する出版社Chronicle Booksと提携した。
Moleskineファンは、デザイン重視のデジタルデバイスの崇拝者でもあることが多いと、Beghin氏はみている。MacBookを使うウェブデザイナーは、傍らにMoleskineを置いている可能性がかなり高いという。こうした背景から、Moleskine社は3月に、同社製品ユーザーのデジタル世界とアナログ世界を融合する方法を見出した。Moleskine.comのサイト内に用意したMSKというツールがそれで、携帯電話からエキスポートしたアドレスやデジタル画像などのネットコンテンツを、Moleskineノートにぴったり収まるPDFに作成できる。 「創造力を解き放つことに値段は付けられない。我が社の製品を自己表現のツール、と常に位置づけている」とBeghin氏は語る。

Moleskine Pocket Squared Notebook Classic
建物はオスカー・ニーマイヤー事務所のデザインで、総工費は約四億七千七百万レアル。ビア・エンジェニャリア、OAS、カマルゴ・コレアの三社が委託を受けて建設を予定していた。
ところが、入札時の見積もり金額が、約三百三十万レアル上乗せされていたことが後日発覚し、業者選定からやり直すため、中止が決定した。
工費の二百四十万レアルは既に業者に支払済みだが、先週、最高裁のメンデス長官らが契約破棄の署名をし、事実上中止された。新入札は二か月以内に行なわれる予定。
2009年5月20日付