今回は『般若心経』の内容に迫ります。


 般若(悟り)のヒントを身近に探そうという試みですが、内容部に入る前に、「いわゆる仏教」って感じの映像をとっぱらってしまいましょう。

 般若は普遍ですから、インドとも木魚とも特別な相関性はありません。23世紀のアルデバラン星にも我々の日常にもヒントは溢れているんですね。
 ですから背景は、蛇口をひねって歯を磨くとか、Tシャツでコンビニに行くとか、カレーを食べるとか、これはインドと変わらないか。とにかく日常のままで問題なく、その方がとっつきやすいでしょう。
 神秘といって呪文にしてしまい、内容を敬遠させられることこそ恐ろしいのです。


 前回は、茶道や庭園や能といった、室町時代の芸能を見てきました。

 みんな同じノリです。
 水墨画は空白を描き、茶器は地味さで、能は停止で訴えます。芭蕉もこんなことを指摘していたと思いますが、茶も能も表現していることは一つです。
 これらの核は、般若(悟り)の実践です。煩悩から自由になり、相対観念にとらわれず、涅槃の境地で自在に遊ぶことです。室町時代には、それが明言されるレベルで濃厚に残っていました。

 現代にも有無を自在にするアートはあって、マンガは水墨画の直系の子孫ですし、「漫」の字義は「満ちて際限なく広がる」とか「何とはなしに」と、いかにも老荘的なんですが、漫才なんかも凄いアートなわけです。二人が舞台に立っているだけで、作法も何もなく際限なく自由に聞けるから、全力で傾聴できるんですね。セットなんかいから、意味なんかいから、ただひたすら面白いんです。

 漫才が表現する近畿周辺の“アホ”の観念も仏教的、老荘的です。
 “アホ”は呆けているから、上に立つべき“頭がいい”にも、支配下に置かれるか追放されるべき“バカ”にも、いちいち比べて分別しない・されない超越的なアホなんです。職場のストレスの中、お笑いを癒やしに使う女性が増えているようですが、理にかなったことなんですね。この“アホ”感は、儒教城下町である東京や名古屋の巷間には広まっていません。

 他にも、ポップ音楽がシンプルなビートルズに帰ってきたり、浮世絵や昭和の邦画に侘び寂びがあって、それがパリやハリウッドに伝わって逆輸入されていたり、携帯電話がボタンだらけになるとiPhoneが流行ったり、「おしゃれインテリア」や「手紙の書き方」みたいなハウツーにも仏教精神は伝わっています、というか『般若心経』はハウツー本の先祖

 最新機器を使っても、これは摂理ですからかわりません。僕なんかが写真を撮るには、10年物の中古とかケータイのおまけ程度のカメラがふさわしいです。僕がプロみたいな写真を撮ろうとして凄いカメラを買っても、身体の一部にするのは無理で、取扱いに追われ、高画質なありきたりの写真を撮ることになるでしょう。でもシャッターを押すだけなら、アングルやタイミングに注力できるんですね。そこは自在になります。

 いずれもキーワードは“無といえます。



 『般若心経』の内容部のはじめのところは、有無の超越です。

 モノ(形あるもの、ハードウェア。『般若心経』では「色」)についてですね。

 “茶碗”は土か石であって、茶碗でないかもしれません。空き缶を“花挿し”と呼んで、花を挿せば花挿しです。ミクロを見てみれば、その花挿しは少しずつ酸化したりしていますが、その酸素はいつからどこから花挿しになるのか。

 我々が「ある」と思っているものは全て、我々がそれがあると感じているだけです。モノは全てゲシュタルトにすぎないわけです。そしてこれらのモノは、“風が吹けば(あーなってこーなってあーなって……)桶屋が儲かる”ように、因果も不断で、一体何だかわからないのです。

 雲はどこからいつまで雲であるのか。薄影は有るのか無いのかということは、これも絶対ではありません。我々のいう雲とは、雲と雲で無いものとの境界をどこかで感じ、その雲側のことを指しています。「雲が有る」ではなく、「雲である」という表現が本来的でしょう。
 ちなみに西洋社会は、東洋儒教社会ほどの煩悩社会ではありません。
 There is a pen. は、いくらか直訳的に捉えたほうが、英語人の感覚に近いと思います。僕にはこれも般若へのヒントになりました。

 2回前あたりで触れたと思いますが、“カエルが飛び込む水音”の情景では、雑音の無が有であるから水音が有になっています。この水音が今度は静けさとして感じられるように「有無って絶対的な物じゃなくね?」ということです。
 結局、モノとは頭で作りだしているもの。
 『般若心経』には、悟った答えだけが簡潔に書いてあります。



 無い無い尽くしの『般若心経』ですが、続いてはソフトウェアについて。

 「視覚も聴覚も嗅覚も無く、色も音も匂いも無い。感情とか意思とか知識も無い。」

 なぜ、一つの般若なのに、複数の芸能があるのか。

 華道や茶道といった諸芸能は、主に目で感じるもの、主に身体で感じるもの、主に舌で感じるもの……と分類されています。もちろんいずれも般若に基づく総合芸術であり、根本が繋がっているわけですが、それぞれ主役は異なるわけです。


 さきほど雲を例に出しましたが、視覚もまた、視覚と視覚でないものとの境界を引いた視覚側の事です。

 実は視覚や聴覚も、我々の分別によった相対的な感覚なんです。


 近代社会では、「世界があって、そこに適応して5感を備えた人間が生まれてきた」と考える思想が一般的です。いわば世界存在の絶対化です。そうなると、人間の感覚も絶対的にある物となります。
 これは歴史的には象や亀の上だったり、平らな円盤の上だったりした変数です。儒教思想でも科学思想でもこのように捉えるため、現代の日本ではこれが支配的な認識です。これが「いくらかあるうちの一つの考えである」とすら思っていない人のほうが多いかもしれません。

 般若の世界では、「世界なんてものは無いし、人間も無いし、無いということも無い」とか、「そんなことはわからんわい」と解釈します。

 「人間が自分の感覚器官に従い、世界を割って受け取っている」と捉えるのです。つまり「カオスを、人間がたまたま自分に開いた穴である、目や鼻や口で解釈できるように割ることで把握している」ということです。

 だから光とか音があるんじゃなくて、そんなものはもともと無くて、我々が目や耳を使うから、目や耳や三半規管や皮膚感覚で感じるように周囲を勝手に割って、その産物どもを光とか音、重力や温度とかモノとか宇宙などと、勝手に呼んで解釈している感じです。
 たとえば我々が目でとらえている光は絶対的な物ではなく、トーをナハでとらえて生活している鉄鉱石のような生物?(『火の鳥』に、岩のような「生物」が描かれる話があります)がいるとすれば、「光」は全く通じない単語です。我々が「トー」を理解しないのと同じように。
 これが般若の宇宙観。


 ですから、いわゆる五感も実在しません。

 「指とは、正確にはどこまででしょう?
 同じように、「鼻や耳は繋がっている」などといいますが、一体どこまでが目で、どこまでが鼻で、どこまでが視覚で、どこまでが聴覚でしょう

 最初のほうで、僕には『般若心経』の文面が黄色がかって感じられることを記しましたが、僕は文字や音や人格に色を感じます
 こういう人は比較的少数ではあるようですが、僕の周りにもちらほらいます。こういう感性は俗に共感覚とよばれ、痛みに色があるとか、味覚に音があるなんて人もいるようです。

 子供の頃には誰もが持っている感覚らしく、成長するにつれ目や鼻がしっかりしてきて、いわば分別感覚が育ってくるようですが、ときどき育ちそこなう人が出てくるわけです。
 「共感覚がある」というのは、すなわち「分別感覚がない」ということでもあります。僕なんかは“赤”とかが出てきてしまうので、音を純度の高い音として集中して聞くことはできない、その世界のことは想像もつかないわけです。

 つまり共感覚とは“それぞれの感覚器官の独立性には大きな個人差がある”という、当たり前チックな弾力の一方の端のこと。当然ですよね。だって物理的にも鼻や口の境界がはっきりしないんですから。境界付近の繋ぎ目っぽいところの太さや密度にも個人差があります。
 ところが有に囚われた近代社会にはファシズム性が生まれており、共感覚だけが有ると思いこみ少数派には不便や崇拝です。でもタネを明かせばこんなものです。
 とにかく般若の世界では、感覚も一切無いと捉えます。


 仏教には「観音菩薩」という言葉があります。
 僕の将来的な理想イメージは荘子に近く、僕は道家に分類されると思うんですが、仏教イチオシのところもあります(まあ、ほぼ同じ思想で融合も多いんですが)。その理由の一つがこの語。

 「菩薩」は「修行者」の音訳だそうですが、「観音」についてははよくわかっていないようです。諸説あって、音訳説や意訳説があるんですが、僕はこの共感覚のことから、意訳説に説得力を感じます。音を観るんですね。

 「どこからが色で、どこからが形かなんて、俺が勝手にけて、そう思い込んでるだけじゃないの?

 このように、共感覚は無分別のヒントになりうるからです。過去にもそういう人が沢山いたのかもしれません。

 我々が慣用している“太い声”、“明るい顔”といった表現がありますが、全くそう感じなければ、このような表現は生まれず、支持されてこなかったはずです。
 たとえば物の形状を見たときに、「これは目で見るものである」という固定観念から脱すると、気に留めていなかった様々な自身の感性に気づく人も多いかもしれません。僕は共感覚者はもっと多いと踏んでいます。


 ともあれこんなようなことから、東山時代の諸芸能がそれぞれの形をとりつつも核を共有しているのは、自然な形なのでしょう。どこまでが水墨画で、どこまでが茶道であるかなんてかりっこないからです。


 仏教ではこのような基盤を立脚点とし、「主体的に生きる」というテーマに発展させることが多いようです(諸芸にも表現されています)。
 僕も全く同感なんですが、応用は少し話がズレてしまうので今回は飛ばしましょう。



 このように、世界認識というのは主観的で相対的なもので、みみず達や雲達が周囲をどのように把握しているのか、していないのか、さっぱりわかりません。

 そもそも周囲とは何なのか。
 自“分”とか「われ」とかいうけど、さっき飲んだミルクはいつ自分になるのか、なったのか。
 自我なんてものも無いんですね。
 これも頭で割って(分けて)作ったもの。煩悩です。

 仏教では“自我”がラスボスという印象を受けますが、般若に近づくには、こうした分別を徹底的に捨てていきます。



 『般若心経』の内容部の最後の段は、老いと生死、それに苦悩の超越についてです。

 これまた簡潔な記述ですが、自分が自分にかけている魔法を解いて、般若を悟れば(つまり分別のトリックを感知して相対観念を超越すれば、老いと若さや、生と死や、苦悩と喜びだってもちろん無いんですね。
 とはいっても、様々な経典にそれなりの分量の問答があったり、インド哲学や社会状況が読者のベースに想定された上での心経の簡潔さです。
 ですので、ここで触れるならば、我々に身近な例が要ることになりす。やるにしてもまた別にしましょう。


 ざっくりでしたが、以上がだいたいの内容。

 一言でいえばリテラシーですかね。


 次回からは、現状ネタ帳がグダグダになっているんですが、よくある誤解について一応述べまして、それから西洋芸術とか聖書とか、他に見られる般若のヒントを紹介して終わりにしようと考えています。

 実践編、応用というか、立脚点が般若化するということについては論点が変わってくるので、触れるにしても一回切ろうかなと思っています。










 般若(悟り)への道は、日本の伝統芸術にも潜んでいます。


 前回までに俳句、お茶と詳細を見てきましたが、今回はその他をまとめてみましょう。

 回り道をし、悟りへは次回、一気にたたみかけます。

 でも、今回も目を通して損はしませんよ。
 30分で伝統芸能を理解できるようになると言っても過言ではありません。

 伝統芸術を理解できない人は日本にはほとんどいません。マンガは伝統芸術の直系ですから、決して難しいものじゃないんです。高尚なものでもありません。




(東山文化を代表する銀閣。この角度から抜くと禅風に。建物全体が映るこのアングルは紹介写真に用いられるが、銀閣の一面にすぎない。もう一面は下へ)


 1450年頃から1500年頃まで、東山文化と呼ばれる芸術の時代がありました。
 日本の文化史は東山文化とその他と言ってもいいくらいに重要な時代です。


 東山時代があるということは、その前後に対照的な時代があるということです。
 その百年ほど前。室町幕府の3代将軍足利義満は金閣を建てました。今は寺院ですが本来は政庁で、現代でいう東京都庁。黄金の量がデカさに変わった感じです。

 足利氏は坂東武者で、義満は京都に来て3代目。度量のあるビッグマンではありましたが、権力と財力の味を知ってウハウハの、成り上がり系の田舎者です。その趣味は前回紹介した成り上がり者、秀吉の黄金の茶室にも通じています。

 煩悩マシンである義満の唐物コレクションは、高い物を、量を集める感じです。連歌を頻繁にやらせ、ネタが貯まる前にやりすぎて劣化させたりしています。趣味はバブリー。車は金のスモークベンツ。金で買えねえものはねえ。俺はそう信じてるぜ!
 
 義満が理解を示したといわれる芸術には世阿弥の能があります。しかし義満のグロテスクで触手的な色好みのうち男色のほうで、12歳の世阿弥を寵童にしていたのです。つまりたぶん援助です。

 この時代の文化を北山文化といいますが(金閣は京都の北にあります)、ちょうど中国では水墨画が栄え、元末四大家などがいました。モンゴル人は文字?なにそれ食えるの?というカルチャー。それで文筆や芸術はかなり自由で、文化は栄えていたのです。
 義満は中国では低評価だった牧谿(もっけい)を収集するなど、ひょっとすると絵は理解していたかもしれません。これが東山文化に影響をもたらします。





(水墨画的風景、東北の立石寺。人の生活が点のように見え、雪舟も芭蕉も訪れたのは偶然ではないだろう。ちなみに撮影時、雪舟が来ていたことは知らなかった。つまり僕の趣味も同系統)


 義満が御用絵師にしたのが周文という人で、その弟子が、東山時代に和風の水墨画を完成させた雪舟でした。文化史上では有名な人です(以降、文化人の名前を一応書いておきますが、問題は文物の内容ですので全部スルーしてかまいません)。

 水墨画に とって空白は絵です。空白というがあってこそ、描かれた部分が引き立つのです。俳句や侘び茶と通じていますよね。いわば俳句は詠まれた水墨画です。雄大で深く険しい山々の間に、小さく人家が描かれていたりします。

 雪舟は画家というより禅僧で、修行のために絵を描いていました。そういうこともあって山水画というと禅のイメージが強いのですが、空白を自在に活かした能阿弥は浄土教系の時宗(○阿弥は時宗)で、空白の多い長谷川等伯は日蓮宗です。水墨画の元である中国江南の風景は、老荘の隠棲思想に拠っていました。
 絵はゴールである相対観念の超越という認識の体現ですから、いわばルートである宗派の違いはあまり関係はありません。絵には言語が要らず、中国も日本も違いは少ないです。





(江戸時代の画家、葛飾北斎の富嶽三十六景の一枚だが、描かれているのは風と思われ、空白は活かされ、描かれているものといえる)


 その直系の子孫が浮世絵です。大衆化と版画の技法に合わせて変化したものです。さらにその子孫がマンガ。デフォルメされて白黒でシンプルで躍動感があり、緊張するシーンだと空白が多く、セリフが無かったりしますよね。アメコミとかは完全に別のものです。

 日本では当たり前になってしまっていますが、実はマンガを読むには特別なセンスが必要です。僕がそうなんですが、マンガネイティブでも数年読まないでいるとスラスラ読むことができなくなります。絵に一々引っかかって、じっくり見すぎても難しいんですね。ただ、空白に注目して読んでみると、描く方も読む方も、かなり芸術的な行為を行っていることがわかります。



 その頃、観阿弥が民俗学的に収集した地方の祭司的習俗を、息子の世阿弥が京風文化と融合し、次の東山の時代に繋がる侘び寂びの芸能に止揚します。

 能の技はやはり停止を活かすものです。絵でいう空白です。舞台や動きは単純化されました。
 たとえば腰の高さは常に一定で、観客の目を向けさせません。そのようにして、ただ立っているだけ(カマエ)、歩いているだけ(ハコビ)でも表現できるように作られています。
 泣くことは顔に手を当てるだけで表現されます。面があって、表情はありません。道具には扇を応用し、扇であって扇ではありません。そういうところは我々の内面にある像を使うわけです。





(銀閣の周囲にある苔庭園)


 室町8代将軍の足利義政は、代々100年以上の都生まれの都育ち。権力にも飽き飽きし、嫌々将軍をやっていました。凶作?餓死?将軍?知らねーな。オレはオヤジとは違う道に進むんだ。……だからといって校庭をバイクで走ったりしねえけどな。だってオヤジがそうだったから。

 そんな彼が建てたのが銀閣。現代まで日本の住宅のモデルとなっている建築です。銀閣とは金閣に対する後世の俗称で、実際には漆塗りで黒かったそうです。義政は古いフィアットやシトロエンに乗るタイプ。断言しますが、銀を貼るなんてありえません
 我々は漆の銀閣のイメージを知ることはできませんが、義政は漆が剥がれた侘び寂びも嫌いではないはずです。生前は未完成だったそうで、漆バージョンへのコメントも伺い知ることはできません。


 仏教は伝来当初、蘇我氏の氏神というローカルなカルトでした。これが奈良時代には学問体系や、大仏に象徴される国立思想に。仏教は知識階級や王侯貴族のものになります。
 平安時代に怨霊のような土着信仰と融合。今日のように仏教が庶民にも一般的になったのは、鎌倉時代に浄土教が流布されて以降です。

 室町時代の京都では、西国・公家風の末法思想的な浄土信仰東国・武家風の武者修行的な禅が融合し、その表現が始まりました。金閣は二層が浄土様式、三層が禅様式。銀閣は初層が住宅風、二層が禅様式です。
 室町幕府は、俗の極みである朱子学(儒教の一派)を信奉した後醍醐天皇の勢力を倒して天下を取った政権でした。その治世下、仏教文化は儒教から自由で、伸び伸びと栄えました。

 金閣と違って、銀閣は当初から実質的に寺院として建てられていました。
 庭園には、極楽浄土の安泰を表現した浄土庭園(『源氏物語』的な庭)に、修行地である山奥を市中や郊外に再現した、岩肌の多い禅式庭園(いわば立体化した山水画)が併設されていきます。
 禅様式が究極的に単純化されたのが枯山水(現在銀閣と東求堂との間にあるものは江戸後期のものらしくスタイルが異質)。銀閣は今の苔寺のような池泉庭園と、枯山水を備えていたようです。





(義政が常駐し、暮らしていたという東求堂。仏像が安置された小屋という感じ。この禅式側からのアングルの写真はほとんど見かけない。これと下の写真の二枚の取材ために、わざわざ取材に行って500円を払い、修学旅行生を華麗に交わして非常に頑張った)


 政治の責任者であった義政は、銀閣よりさらに地味な東求堂に居たようです。
 彼によってはじめて、侘び茶的な茶器に価値が見出されました。
 その頃、京の街は応仁の乱で火の海です。うん。生まれてくるとこ間違えたんだ。


 義政と、彼が集めた時宗系アーティストたちによって、銀閣では茶道の元が生まれ、水墨画の新体が開拓されます。こうして諸事は簡素化されます。浄土教系の時宗の祖、踊念仏で有名な一遍は、捨聖(すてひじり)と呼ばれ、寺も仏像も経典も自分も捨てて、念仏だけになったと言われる人物でした。
 銀閣の二層が禅様式であるように、禅の影響もありました。“”の字を見ればわかるように、時宗とは道は違えど到達点は同じ。つまり捨てと同じ純化です。東山文化は、汎仏教的といえます。

 書院造と床の間には花が飾られ、この一点集中と空間構築が華道になります。部屋は地味、器は腐ったように地味で、枝は流れるように空間を作り、花が引き立つようになっています。将軍家はボロボロ。妻も子も弟も全員敵だけど

 これらのことには義政自身が非凡な才能で参画していました。雪舟が無名だった狩野派の祖を押したところ、そいつならもう、うちで働いてるぜ。ということがあったそうです。疫病も一揆も華麗にスルー。京都は死体の山です


 しかしこれだけの感性の人物ですから、後世の無能の評は割り引いたほうがよさそうです。
 第一に、理解の得られない国家千年の計であった可能性があること。
 第二に、彼が乱世において天寿を全うしている事。
 第三に、幕府はこの後100年続き、足利氏はその後も存続している事。
 第四に、実は京の街に膨大な建設費を落としたと想像されること。
 第五に、史家には(特に武力・財力で)優劣を立てる儒者が多く、仏教を攻撃するということ。

 それに義政は草食系でしたから、秀吉のように文化人の耳鼻を削いで殺すということはしませんでした。ただし世阿弥や雪舟は権力から距離を置いています。

 東山文化のプロデューサーの真意は謎につつまれたままです。





(浄土庭園側からのアングル。銀閣を背に緑が金色に輝いているが、これが義政の金閣への回答ではなかろうか。最上部図:禅式庭園側からは、侘び寂びの中に諸行無常の四季をチラ見せ。本図:浄土庭園から抜くアングルでは、森羅万象という無の中に侘び寂びをチラリ銀閣で画像検索しても、こちらのアングルは全く見当たらないため取材に行った。双方あって平穏たる銀閣の本領であり、見学の際は是非こちらもご覧・撮影いただきたい)


 とにかくこうして、ついに観賞が発見されました。

 絵は、並べるのではありません。ある日に、ある一枚を床の間に飾り、主題とします。

 花も飾られ、観賞されます。茶器も名品を観賞しながら使う様式です。花は目だけで味わうものでなく、茶は舌だけで味わうものではないと認識されました。

 この東山における茶礼と、一休禅師(あの一休さん)が、民間の茶道をマスターした浄土僧の村田珠光という人の中で融合し、侘び茶になります。
 連歌もこうした場で催され、禅僧の宗祇が完成させます。これが後に俳句に。



 大体出そろったでしょうか。


 いや、東山文化というのは全一斉なんです。
 すべてが同じところにあって、どれも独立していません。庭園も建築も、内装も調度品も、中で行われる行為も道具も、境目がありません。
 次回、一気に般若の核心に向かいますが、これが重要になってきます。


 東山的概念は、端的には今日にも溢れています。
 水墨画とマンガを挙げましたが、インテリアデザインが華道的だったり、古い鉄道車両、廃墟、野良動物の写真なんかに侘び寂び系は多いです。“伝えたいことは一点に絞れ”なんていう会話法もありますよね。流行の断捨離(だんしゃり)もそうです。バブルという北山が崩壊したからでしょうか。

 これらは全て般若への入り口になりえるわけですが、趣味を越えて、世界認識に止揚したところが東山の世界です。


 般若を得るには「相対観念の超越」とか「分別知からの解放」といった理論的アプローチもありますが、まずは般若を感じてみる方法をご紹介しました。

 東山文化を感じるために、寺院や博物館に行く必要はありません。

 冒頭で、東山文化とその他だと言いましたが、なぜ東山文化が特別なのかというと、これだけが普遍的で、人を選ばないからです。
 理解が難しいのは禅問答的な枯山水と、知識が必要な能くらいです。他は独りでできて、どんなセンスのない貧乏人でも、山や野原やゴミ捨て場を漁れば参加可能で、無一文や最下層からその道を極めた人々が普通にいる世界です。
 この特質は、それ以前の貴族文化にも、後世の大衆文化にもありません。それは東山文化のエッセンスが般若に通じているためで、それゆえにどこにでも、ゴビ砂漠や新宿界隈の便所の中にも転がっています。

 たとえば侘び寂びは、立ち食いそばを食っている萎びたサラリーマンの背中だとか、GWの雨の中、ドライブインのしょぼいテーブルで大してうまくもないカレーやラーメンを食っている事でも感じることができます。
 僕もまだまだ修行中ですが、ある昼下がりに歓楽街を歩いていると、バーの中から妙にリアルな音楽が聞こえ、見ると初老のピアニストが練習してるんですね。たしかに凄い上手いんだけどそれだけじゃなくて、思わず階段に座り込んで聴いてしまいました。場末っぽいところだからこそ、意外なシチュエーションだからこそ音が輝くんですね。ときどきそんなことがあります。


 次回、『般若心経』の核心に迫ります。





(比較観賞用:クリックで拡大 














 暑い日に疲れてビールを一杯やるとき、最初の一口は美味いですよね。

 プハー……! たまんねえぜ!


 というやつです。
 ところが3杯目ともなると、1杯目ほどの感激はないものです。


 甘味を食べているとき、時々お茶を飲み、味覚をリフレッシュしてから次の一口を食べたほうが甘く感じます。同じように茶の味も引き立つわけです。

 もし唾液が甘かったら、甘さは感じられないでしょう。甘さなんてものは無いんです。甘さは神経の感じる差分にすぎません。甘さは、甘さの無いことと共にはじめて存在しえます

 こうした相対観念の認識は、芸術の一大キーワードです。
 といっても、何ということもありません。この実践は習慣化されていますよね。
 お茶と甘味のコンボはイギリス人もトルコ人も得意です。日本ではお茶と、お茶を飲む周りの環境も世界に組み込まれ、茶道という形で芸術化されました。





(利休の首が晒された一条戻橋。自身の木像に踏みつけられていたという)



 今日は悟っている例と、そうでない好例をご紹介しましょう。

 『般若心経』にも「モノに実体は無い」とありますが、茶人として有名な千利休は、形あるモノという価値感から自由な人物だったようです。

 山というのはどこの砂粒から山なのか……。山なんてものはいんです。山でいものもいんです。
 禁煙をしたら、灰皿がアメ入れになったりしますよね。灰皿なんてモノはありません。利休はそんな調子でブランド品の茶器を避け、桂川の漁師から魚とりのびくをもらってきたり、壊れた茶器や、拾ってきた竹を花差しにしていました。

 これらの茶道具は立派な物でも珍しい物でも美しい物でもなく、自然と背後に回れる引き立たせ役です。
 今も残っているのは、こんな無価値なものを使っていたというサンプルだから。いわば無価値なところに価値があるという皮肉なものです。

 採光の発想も光の信仰ではありません 。茶室の戸を工夫し、光と影を自在に入れるようにしていました。つまり天然のスポットライトです。採光というよりも採影光といったほうがふさわしいでしょう。


 これらを全く理解できなかった人物が秀吉でした。
 秀吉といえば、庶民から出てきて天下を取るほどの人物。むしろ朝鮮と明まで狙っていました。史上の出世頭ですから、史上最大の煩悩の塊です。

 彼は天下人となると、流行の先端であり、文化人とされる人々が群がっている茶道にも手を出しました。名器や名士をコレクションして大公開です。おそらくイケてるグループに入りたかったとかそんなきっかけでしょう。
 あろうことか、全部黄金の茶室を建てました。

 おいおい……!

 もしくは利休の気持ちはイエス・キリストだったかもしれません。

 
一歩近づく気持ちが大事なのであって、その速度や現在の位置は全く問題ではない……

 と。

 秀吉は利休の弟子、山上宗二が逆らったということで、耳鼻を削いで打ち首にします。
 その翌年には、利休が突然蟄居を命じられ、切腹に。理由は謎のままです。


 利休は、切腹の命令を伝えに来た秀吉の使者を「お茶の支度が出来ております」と落ち着き払って迎えたそうです。

 秀吉の最期はというと、秀吉を八幡神として神格化するように遺言します。未だ安定しない権力と子の秀頼を案じ、最期まで苦しんでいました。

 一方で秀吉は「偉くなって贅沢なものを何でも食べたが、貧しい時に本当に腹が減って食べた麦飯ほど美味いものはなかった」とも言い残しているそうです。
 利休の侘び茶を少しは理解していたかもしれず、その才能はあったでしょう。


 現代に肥満が多いのは、栄養価の高い食品に溢れていることだけでなく、思想にも理由があります。
 相対観念に囚われ、豊かさや幸福に囚われると、たくさん食べることに囚われるようになります。
 甘味を連続して食べたり、さらに強い甘味を食べていると、これが体型に反映されるのです。

 脂肪を減らしたい方は、一度試してみてください。
 今までの甘味一口を半口にし、溶けてゆく余韻までじっくりと味わいます。次に苦い物を飲んで、これも余韻までたっぷりと香わい、それから残りの半口を食べてみてください。これも思う存分味わいます。本当に甘いものが好きなら、じっくりと味わってあげてもバチはあたりません。舌の先奥左右から脳まで、全身全霊で受け止めてあげたことが今まであったでしょうか。
 色や形、デザインを愛で、匂いを嗅ぎ、温度や重さを感じ、姿勢や口や味覚の状態を確認し、それから手を付けてみましょう。

 このことは、飲酒や油分、塩分なども同じです。依存性に個人差は大きいですが、僕の酒量は酒室?で丁寧に味わうことによって激減しました(酒道?)。次はニンニクあたりでしょうか……。