今回は『般若心経』の内容に迫ります。


 般若(悟り)のヒントを身近に探そうという試みですが、内容部に入る前に、「いわゆる仏教」って感じの映像をとっぱらってしまいましょう。

 般若は普遍ですから、インドとも木魚とも特別な相関性はありません。23世紀のアルデバラン星にも我々の日常にもヒントは溢れているんですね。
 ですから背景は、蛇口をひねって歯を磨くとか、Tシャツでコンビニに行くとか、カレーを食べるとか、これはインドと変わらないか。とにかく日常のままで問題なく、その方がとっつきやすいでしょう。
 神秘といって呪文にしてしまい、内容を敬遠させられることこそ恐ろしいのです。


 前回は、茶道や庭園や能といった、室町時代の芸能を見てきました。

 みんな同じノリです。
 水墨画は空白を描き、茶器は地味さで、能は停止で訴えます。芭蕉もこんなことを指摘していたと思いますが、茶も能も表現していることは一つです。
 これらの核は、般若(悟り)の実践です。煩悩から自由になり、相対観念にとらわれず、涅槃の境地で自在に遊ぶことです。室町時代には、それが明言されるレベルで濃厚に残っていました。

 現代にも有無を自在にするアートはあって、マンガは水墨画の直系の子孫ですし、「漫」の字義は「満ちて際限なく広がる」とか「何とはなしに」と、いかにも老荘的なんですが、漫才なんかも凄いアートなわけです。二人が舞台に立っているだけで、作法も何もなく際限なく自由に聞けるから、全力で傾聴できるんですね。セットなんかいから、意味なんかいから、ただひたすら面白いんです。

 漫才が表現する近畿周辺の“アホ”の観念も仏教的、老荘的です。
 “アホ”は呆けているから、上に立つべき“頭がいい”にも、支配下に置かれるか追放されるべき“バカ”にも、いちいち比べて分別しない・されない超越的なアホなんです。職場のストレスの中、お笑いを癒やしに使う女性が増えているようですが、理にかなったことなんですね。この“アホ”感は、儒教城下町である東京や名古屋の巷間には広まっていません。

 他にも、ポップ音楽がシンプルなビートルズに帰ってきたり、浮世絵や昭和の邦画に侘び寂びがあって、それがパリやハリウッドに伝わって逆輸入されていたり、携帯電話がボタンだらけになるとiPhoneが流行ったり、「おしゃれインテリア」や「手紙の書き方」みたいなハウツーにも仏教精神は伝わっています、というか『般若心経』はハウツー本の先祖

 最新機器を使っても、これは摂理ですからかわりません。僕なんかが写真を撮るには、10年物の中古とかケータイのおまけ程度のカメラがふさわしいです。僕がプロみたいな写真を撮ろうとして凄いカメラを買っても、身体の一部にするのは無理で、取扱いに追われ、高画質なありきたりの写真を撮ることになるでしょう。でもシャッターを押すだけなら、アングルやタイミングに注力できるんですね。そこは自在になります。

 いずれもキーワードは“無といえます。



 『般若心経』の内容部のはじめのところは、有無の超越です。

 モノ(形あるもの、ハードウェア。『般若心経』では「色」)についてですね。

 “茶碗”は土か石であって、茶碗でないかもしれません。空き缶を“花挿し”と呼んで、花を挿せば花挿しです。ミクロを見てみれば、その花挿しは少しずつ酸化したりしていますが、その酸素はいつからどこから花挿しになるのか。

 我々が「ある」と思っているものは全て、我々がそれがあると感じているだけです。モノは全てゲシュタルトにすぎないわけです。そしてこれらのモノは、“風が吹けば(あーなってこーなってあーなって……)桶屋が儲かる”ように、因果も不断で、一体何だかわからないのです。

 雲はどこからいつまで雲であるのか。薄影は有るのか無いのかということは、これも絶対ではありません。我々のいう雲とは、雲と雲で無いものとの境界をどこかで感じ、その雲側のことを指しています。「雲が有る」ではなく、「雲である」という表現が本来的でしょう。
 ちなみに西洋社会は、東洋儒教社会ほどの煩悩社会ではありません。
 There is a pen. は、いくらか直訳的に捉えたほうが、英語人の感覚に近いと思います。僕にはこれも般若へのヒントになりました。

 2回前あたりで触れたと思いますが、“カエルが飛び込む水音”の情景では、雑音の無が有であるから水音が有になっています。この水音が今度は静けさとして感じられるように「有無って絶対的な物じゃなくね?」ということです。
 結局、モノとは頭で作りだしているもの。
 『般若心経』には、悟った答えだけが簡潔に書いてあります。



 無い無い尽くしの『般若心経』ですが、続いてはソフトウェアについて。

 「視覚も聴覚も嗅覚も無く、色も音も匂いも無い。感情とか意思とか知識も無い。」

 なぜ、一つの般若なのに、複数の芸能があるのか。

 華道や茶道といった諸芸能は、主に目で感じるもの、主に身体で感じるもの、主に舌で感じるもの……と分類されています。もちろんいずれも般若に基づく総合芸術であり、根本が繋がっているわけですが、それぞれ主役は異なるわけです。


 さきほど雲を例に出しましたが、視覚もまた、視覚と視覚でないものとの境界を引いた視覚側の事です。

 実は視覚や聴覚も、我々の分別によった相対的な感覚なんです。


 近代社会では、「世界があって、そこに適応して5感を備えた人間が生まれてきた」と考える思想が一般的です。いわば世界存在の絶対化です。そうなると、人間の感覚も絶対的にある物となります。
 これは歴史的には象や亀の上だったり、平らな円盤の上だったりした変数です。儒教思想でも科学思想でもこのように捉えるため、現代の日本ではこれが支配的な認識です。これが「いくらかあるうちの一つの考えである」とすら思っていない人のほうが多いかもしれません。

 般若の世界では、「世界なんてものは無いし、人間も無いし、無いということも無い」とか、「そんなことはわからんわい」と解釈します。

 「人間が自分の感覚器官に従い、世界を割って受け取っている」と捉えるのです。つまり「カオスを、人間がたまたま自分に開いた穴である、目や鼻や口で解釈できるように割ることで把握している」ということです。

 だから光とか音があるんじゃなくて、そんなものはもともと無くて、我々が目や耳を使うから、目や耳や三半規管や皮膚感覚で感じるように周囲を勝手に割って、その産物どもを光とか音、重力や温度とかモノとか宇宙などと、勝手に呼んで解釈している感じです。
 たとえば我々が目でとらえている光は絶対的な物ではなく、トーをナハでとらえて生活している鉄鉱石のような生物?(『火の鳥』に、岩のような「生物」が描かれる話があります)がいるとすれば、「光」は全く通じない単語です。我々が「トー」を理解しないのと同じように。
 これが般若の宇宙観。


 ですから、いわゆる五感も実在しません。

 「指とは、正確にはどこまででしょう?
 同じように、「鼻や耳は繋がっている」などといいますが、一体どこまでが目で、どこまでが鼻で、どこまでが視覚で、どこまでが聴覚でしょう

 最初のほうで、僕には『般若心経』の文面が黄色がかって感じられることを記しましたが、僕は文字や音や人格に色を感じます
 こういう人は比較的少数ではあるようですが、僕の周りにもちらほらいます。こういう感性は俗に共感覚とよばれ、痛みに色があるとか、味覚に音があるなんて人もいるようです。

 子供の頃には誰もが持っている感覚らしく、成長するにつれ目や鼻がしっかりしてきて、いわば分別感覚が育ってくるようですが、ときどき育ちそこなう人が出てくるわけです。
 「共感覚がある」というのは、すなわち「分別感覚がない」ということでもあります。僕なんかは“赤”とかが出てきてしまうので、音を純度の高い音として集中して聞くことはできない、その世界のことは想像もつかないわけです。

 つまり共感覚とは“それぞれの感覚器官の独立性には大きな個人差がある”という、当たり前チックな弾力の一方の端のこと。当然ですよね。だって物理的にも鼻や口の境界がはっきりしないんですから。境界付近の繋ぎ目っぽいところの太さや密度にも個人差があります。
 ところが有に囚われた近代社会にはファシズム性が生まれており、共感覚だけが有ると思いこみ少数派には不便や崇拝です。でもタネを明かせばこんなものです。
 とにかく般若の世界では、感覚も一切無いと捉えます。


 仏教には「観音菩薩」という言葉があります。
 僕の将来的な理想イメージは荘子に近く、僕は道家に分類されると思うんですが、仏教イチオシのところもあります(まあ、ほぼ同じ思想で融合も多いんですが)。その理由の一つがこの語。

 「菩薩」は「修行者」の音訳だそうですが、「観音」についてははよくわかっていないようです。諸説あって、音訳説や意訳説があるんですが、僕はこの共感覚のことから、意訳説に説得力を感じます。音を観るんですね。

 「どこからが色で、どこからが形かなんて、俺が勝手にけて、そう思い込んでるだけじゃないの?

 このように、共感覚は無分別のヒントになりうるからです。過去にもそういう人が沢山いたのかもしれません。

 我々が慣用している“太い声”、“明るい顔”といった表現がありますが、全くそう感じなければ、このような表現は生まれず、支持されてこなかったはずです。
 たとえば物の形状を見たときに、「これは目で見るものである」という固定観念から脱すると、気に留めていなかった様々な自身の感性に気づく人も多いかもしれません。僕は共感覚者はもっと多いと踏んでいます。


 ともあれこんなようなことから、東山時代の諸芸能がそれぞれの形をとりつつも核を共有しているのは、自然な形なのでしょう。どこまでが水墨画で、どこまでが茶道であるかなんてかりっこないからです。


 仏教ではこのような基盤を立脚点とし、「主体的に生きる」というテーマに発展させることが多いようです(諸芸にも表現されています)。
 僕も全く同感なんですが、応用は少し話がズレてしまうので今回は飛ばしましょう。



 このように、世界認識というのは主観的で相対的なもので、みみず達や雲達が周囲をどのように把握しているのか、していないのか、さっぱりわかりません。

 そもそも周囲とは何なのか。
 自“分”とか「われ」とかいうけど、さっき飲んだミルクはいつ自分になるのか、なったのか。
 自我なんてものも無いんですね。
 これも頭で割って(分けて)作ったもの。煩悩です。

 仏教では“自我”がラスボスという印象を受けますが、般若に近づくには、こうした分別を徹底的に捨てていきます。



 『般若心経』の内容部の最後の段は、老いと生死、それに苦悩の超越についてです。

 これまた簡潔な記述ですが、自分が自分にかけている魔法を解いて、般若を悟れば(つまり分別のトリックを感知して相対観念を超越すれば、老いと若さや、生と死や、苦悩と喜びだってもちろん無いんですね。
 とはいっても、様々な経典にそれなりの分量の問答があったり、インド哲学や社会状況が読者のベースに想定された上での心経の簡潔さです。
 ですので、ここで触れるならば、我々に身近な例が要ることになりす。やるにしてもまた別にしましょう。


 ざっくりでしたが、以上がだいたいの内容。

 一言でいえばリテラシーですかね。


 次回からは、現状ネタ帳がグダグダになっているんですが、よくある誤解について一応述べまして、それから西洋芸術とか聖書とか、他に見られる般若のヒントを紹介して終わりにしようと考えています。

 実践編、応用というか、立脚点が般若化するということについては論点が変わってくるので、触れるにしても一回切ろうかなと思っています。