我々は「メスに生まれた魚はメスだ」と思ってしまいがちです。
実はクロダイやコチなど、確認されているだけで300種の魚類が性転換をするそうで、たとえばクマノミの幼魚と成魚は異性なのだそうです。
常識とは、しばしばこのようなものです。
『般若心経』は、「たったxx文字で人生を変える」と形容されるほどの大物。
非常識どころか“マトモなこと”は一切書いてありません。
簡略版ですから常識と超常識の架け橋のようなものはなく、唐突にこんなことを書かれても、世間一般の物差しで測ればただの電波。誤解が多いのは必然です。
語学の試験で「大麻は有用だから解禁せよ」とか「世界で最も進んだ地域はアフリカである」いう論旨の長文が出されたりしますが、しっかり読めないと
“3.イギリスやドイツは、アフリカより先進的である”
“4.大麻の吸引は社会問題である”
なんかにマルを付けてしまいます。「ここは語順が逆になる用法か何かに違いない」みたいな判断が働いて、論旨を見失うんです。バイアスなしに情報を受け取るということは、実は難しいんです。
お経を読むときも、常識で捉えようとして誤解すると、先入観の支配から出られなくなってしまうわけです。
「清いも穢れも無い」って書いてあるのに、いつの間にか「お釈迦様は偉い人で、それに比べれば我々の心は穢れている」となってしまったり、「実際にはそれは有るはずだから、『無』という表現は物の例えにちがいない」とか。
こうした誤解は人々が原典から遠ざかる中、伝聞を重ねて積まれていきます。
これまで積み上げて頼ってきた常識判断を捨てることは、バイアスなしに情報を受け取ることよりも難しいでしょう。これは常識を打ち破るための大きな関門です。
今回は思いつくままに、仏教周辺によくある誤解を列挙してみましょう。
・お経は呪文である
人々は経典を、HP回復、魔物退治や先祖供養の呪文だと思ってきました―耳だけ持ってかれたとかのバリアですね。しかし本来は呪文として書かれたものではないので、言語として受け取れる内容も含まれています。
カーストを否定する仏教は、権威権力にとって危険でした。だから呪文として意味を伏せたり、法力仏罰への畏怖心の影に行き残ってきた一面があります。
お盆なんかの読経の際、子供に「ありがたいお経なんだから大人しく聞きなさい!」などとやってしまうと、彼は経典(呪文)を嫌いになって、内容(般若)を遠ざけることになります。“いい子”の脳ほど、“無意味だと自分は思っても、我慢して他人に従うことが立派なんだ”と考えるようになり、そうでない子(や自身の脳以外の心身)を見下して立つようになります。これでは奴隷(や自傷)まっしぐらで煩悩の思うつぼ。
経典の内容を思うと皮肉なものです。
・仏教といえば葬式
いわゆる葬式仏教は、仏教の中国伝来後に儒教儀礼が混入し(ちなみに禅は老荘思想と混ざったもの)、これが日本に伝来したあと、日本土着のたたり信仰と融合したものです。仏教は本来日常的・普遍的で、葬式との特別な関係は一切ありません。
察するにこれには一理あって、『般若心経』も「はたして死は悲しむべき苦しいものか?」というテーゼから、参列者のメンタルケアに読まれ、葬儀の場で支持されてきたのでしょう。葬儀を重視する儒教は「人が死んだら悲しめ!泣け!!立派な人と言われたければ苦しめ!!!」という思想なので、一風変わった風習です。
・神様仏様
仏とは悟った人のことで、教祖シッダールタ(いわゆるブッダ)のみを指したり、一般の悟った人みんなを指したり、対象はさまざま。死人のことも仏とよぶ宗派もありますが、これも“死んだら煩悩から解放される”という認識からです。欲望を叶えてくれる神様や、呪って出てくる死霊のことではありません。
・ありがたい菩薩様
菩薩とは修行者のことで、とくに権威のある人を指すわけではありません。
イエス的ですが、“求めようとしているか否か”が基準であって、現在地は関係ありません。「あの女ったらしの高利貸しが菩薩ってwww」というのは、笑うに当たらず、この女ったらしの高利貸しが仏道を求めていれば菩薩です。
あ、何だか高僧みたいなこと言っちゃいましたね?
でもこれ、簡単なことなんです。
大阪駅に向かって旅をしているインド人のうち、香港にいる人も新大阪にいる人も“インド人旅行者”と呼ぶ感じです。「まだチベットにいるくせにインド人旅行者かよw」とか言いませんよね。ペットのコブラまでカレー食べてるのに。つまり貴方も僕も菩薩ということになります。
・仏像は偶像崇拝だ
仏像の製作は1世紀ごろからガンダーラあたりで始まり、字の読めない人々に説話を図解するツールだったようです。という展示を最近博物館で見ました。のちには「修業は独りだが、気持ちは先行者や同僚と共に行こう」とか、「こういう穏やかな顔をめざそう」といった、いわばモデルに。
仏像にご利益を祈願する慣習は大衆的なもので、お坊さんが仏像崇拝をすることはまずないでしょう。キリスト教のイコンやイエス像も解説用、再確認用で、崇拝用ではありませんし、信者がキリスト像やマリア像に向かって金をくれとねだっているわけではありません。この手の偶像崇拝視は、僧侶や信者を貶めて上に立ちたいという願望による曲解と思われます。
・仏教は哲学だ、理論的だ、真理だ……etc.
仏教は、論理や言語の基盤となる感性に関する実作業。お経は理論書というより、実用書とか体験記、ハウツー本です。
人生は可も不可もない現実であって、意義や価値の論理的説明は不要と悟るって感じでしょうかね。
主体的に生きるということは、合理性からも解放されることです。脳は身体の一部にすぎず、脳が理論で考えてやることは行動の一部に過ぎませんし、理論は非理論と分かれることで存在する概念で、これも包括され解消されていく一線です。哲学という訳語は“フィロソフィー”に対していまいちと思うのですが、字義的には分別をしていく知性のことですから、それに従えばこれも別物です。
これは一般論ではなく私見ですが、巷の仏教関係の書籍は近代の科学者に翻訳されていることが多く、“真理”という訳語も頻出するのですが、原典にはどうやら皆無かそれに近い頻度と思われる語で、いわば何かの意訳です。ところが真とは偽との分別で発生しているもので、理も非理とわけて発生させている対立観念。
対立観念である“真理”を激しく信奉すると、何をすることになるでしょう。
・苦行が必要だ
基本的に、仏教は肉体を痛めつけるような苦行には否定的です。たとえばヨガと仏教には一応の関係がありますが、ヨガは苦行というよりリラックスに近く、瞑想の一手段や心身の解放という感じです。
・仏教は無神論だ
神もなければ神がないということもない、となります。仏典ではありませんが『荘子』の最後の最後の項が触れているように、有無の相対観念も超越するため、有神論でも無神論でもありえないのです。
少なくとも仏教は今日いわゆる無神論ではありません。後に触れるつもりですが、むしろキリスト教や神道に似ている面があります。
・経典や教養がないと悟れない
ケースバイケースでしょう。
イスラム社会では概して、女性はモスクに入れません。これを女性差別だなんて言う人もいますが、裏を返せば女性はわざわざ行く必要が無いんですね。飲酒して暴力とかってほぼ男の業ですし、男性は横に不特定多数の女性がいると気が散ってしまう生き物です。「俺の祈り方カッコイイだろ?」とか、誰も見てないのにそういうことしか考えなくなりますよね。
もともと煩悩がおとなしい人は、放っておいても自在に生き、平和に暮らして自然と安らかに死んでいく達観状態なのに、経典なんかは贅肉のようなものです。
一方、いわゆる識字階級は、ヒンズーや朱子学や近代合理主義のプロパガンダを強く受け、がんじがらめに理論武装した差別化の上に立たされてきたので、それに比例する解きほぐしの体系を作りだし、それを教養としてきました。
・偉い人ほどすぐに悟る vs 努力して悟りを得た人ほど偉い
もともと般若に近くてあっけなく悟ろうが、遠路を経験して壮大なストーリーを刻み悟ろうが、いずれも偉いとか優れているとかはありません。
差別そのものが無いように、悟ったから偉いということが、そもそもありません。
・説教や経典を信じろ
宗教では多いことですが、仏教も言葉の限界が前提です。
全部無ですから、言葉もありません。意味の有る音声が言葉であるとするなら、動物の鳴き声との差はあいまいです。人間の言葉でも、解釈が割れるものは言葉と言えるかどうか。
ですので、言葉はあくまでも自身の体験をつっつく起爆剤に過ぎません。ある意味では、自身を信じろ(より深いレベルで)と言っているに近いです。
・煩悩とは欲のことだ
煩悩の範囲はさまざまで、煩悩を108と数えるのも一説。
自我すべてを煩悩としていたり、一部の欲を煩悩としていたりと、解釈は様々のようです。
概して「腹が減る」といった全身の欲求を数えることは少ないようですが、満腹で満足せず、「もっと美味い物があるだろう」と考えることは多くの場合にカウントされるでしょう。
漢語では字義のごとく、アタマが余計なことを考え、うざいこと。
なんとなくですが、わざわざ料理を思い浮かべて空腹感を増すことは煩悩、採取や調理など、自然な食欲に従い心身一体に活動しようとすることは、あまり煩悩とは言わない気がします。
現代の日本語だと、ネガティブシンキングが近いでしょうか。心身はこれでダメージを負い、悩みや苦しみとなります。
・物欲は悪いことだ
これもよくある誤解。
“ある品が手に入らないとき、そのことが将来どういう因果になるか実はわからないのに、勝手にダメだと思い込んで悲しんだりして、辛くないですか……”というのが本来の趣旨。
貴方は、自分がいつ物が欲しくなるか、わかるでしょうか。
“あれが欲しい”と思うことは、通常は自動的にやってくるだけです。僕も昔はそうでしたが、宣伝されたものが受動的に条件反射で欲しくなるという現代人がほとんどで、これは機械的であり、主体的というには程遠い作用ではありませんか。
物欲の喧伝が強い社会になると、「モノが多いことが豊かなことだ」と決めつけたり、持つモノの少ない人への支配欲に支配されるなど、機械的に分別と差別に囚われる人が増えます。
子供が「俺はこれとあれとこんなのも持ってんだぞ!」「俺なんかあれももってんだぞ!」と、持ってるゲームの量で相手を支配しようとしますよね。でも、ゲームを持てば持つほど一個のゲームは下手になります。沢山ゲームをすれば、ゲームに関連性の薄いことが下手になります。
中国では浄土教が、こうした物欲や金銭欲を道徳とする庶民階級(道教階級)を啓発していました。ともあれ、物欲=悪というわけではありません。支配されていませんか?ということです。
・名誉や権威を追うことは悪いことだ
一方、名誉や権威を道徳とする知識階級(儒教階級)は、主に禅宗が啓発していました。
上段の誤解から「物を欲しがることは悪いことだ」と思うと、「物を欲しいと思わないことが立派」と思うようになります。端的にいえば、清貧で名声を得ようとする行為です。
モノでないものを欲しがることになるので、これも煩悩に苦しむことになります。
これは階級対立にもつながります。
現代でもモノの宣伝が多いわけです。だから物欲を攻撃する立場は一見すると中立に見えるのですが、陣営は違うけれども闘争していることは同じです。アタマは物欲を批判することで自我を栄誉の中に置こうとし、結局は別の形でモノに支配されることになり、分別と差別に陥っていくわけです。
モノの入手は、時間や空間との取引。モノもまた相対的なもので、モノでないものとの上下の差は本来はありません。
ですから、モノに釣られなければ支配されることがありませんし、モノに釣られてみれば時空の支配を脱することもあります―モチベーションになるとか、モノを使っている間は余計なことを考え込まずにすんだりですね。
時間、空間もまた然りで、時間を作ればモノが消える、空間を作れば時間が消えたりしますよね。
そこに絶対の価値分別を付けず、思うがままに受け入れ、活用する。これが自在です。
などなど。
世は、都市伝説に溢れているわけです。
「マイナスイオンてどんなの?」
「資本主義って何?」
「エイズって何がどうなるの?」
「偏差値って何?」
「放射能って何?」
言葉が生兵法につけこんで、人間を支配している感すらあります。
世の人々をみれば、自分たちが作って広めた幻影のような言葉に、いかに振り回されていることでしょうか。
「仏教って何?」
も、そんな感じではないでしょうか。
世間はその名前だけ知っていて、恐れて付き合わされているだけではありませんか?
織田信長は好きにはなれませんが、葬式で灰をぶちまけたところは7割がた同感です。
次回は『般若心経』への誤解について。