『般若心経』を理解するには、悟ってしまうのが唯一の方法です。
でも、身構えなくても大丈夫。悟った人というのはそれほど珍しいわけではありません。
今回は、実例から般若を感じてみましょう。
古池や蛙飛び込む水の音
松尾芭蕉の有名な俳句です。
まずは味わってみてください。
さて、この句から、台風や嵐を想像しましたか?
蛙の音が聞こえるということは、静かなんです。
隣で道路工事をしていたら、蛙の音は聞こえないですよね。「蛙の音」と書いてあるのに静けさを示す句になることは、人間が相対的に物事を認識することから来ています。
古池の周囲は無音だから、蛙の音が有るのです。もし台風が有れば、蛙が無音になります。
つまり古池の音の如何は、人間の頭脳が、有るとか無いとか決め込んでいるだけです。
ちょっと俳句の範囲から逸脱しますと、音というもの自体が空気の振動ですので、貴方がその振動と同じ速度で動いていれば、貴方にはそれは無音で、他人には聞こえています。すなわち音自体が実在する物ではありませんし、音がないということもありません。
『般若心経』に出てくる無い無いづくし、無すら無いことが、何となくご想像いただけたでしょうか。
俳句が短いことからも、般若を感じることができます。
詩が短いということは、詠まれていないこと(無)が大きいのです。
もし、この句が長く、天気や気温、水の濁り具合、生えている草の臭い、芭蕉の衣装に加え、社会的背景や人間物語が詠まれ、地球の存亡がかかった恋愛サスペンス 堂々の300ページになっていたら、蛙の音など読み飛ばしてしまうでしょう。
つまり、詠まれていること(蛙の音)は、詠まれていないこと(天気とか人間ストーリーが)があって成立します。最初にもどってみれば逆も然りで、詠まれていないこと(静けさ)は、詠まれたこと(蛙の音が聞こえている事)で成り立ちます。
いわば古池の情景は、無いといえば無いし、有るといえば有るのです。
残された句から、芭蕉が悟っていたことは間違いないでしょう。
芭蕉は禅の“侘び寂び”や和歌の“あはれ”、荘子、李白、西行らの影響を受けています。
果実は食えず、建材にもならない木であるバショウを庭に植えてハンドルネームにしたそうですが、これは荘子の「無用の用」からです。
役に立たないから、切り倒されることなく長生きしている。つまり無用であることが為している有用です。般若風に言えば、「有用ということも無ければ、無用ということも無い」ということになります。
こういう人物であった芭蕉の句には、有・無に限らず「相対観念の超越」の形跡が散見されるのですが、たとえば浄・穢にとらわれず鳥の糞を詠んでいます。
『般若心経』にも「浄も不浄も無い」とありますよね。これはインドで俗人を支配していたヒンズー教のカースト感覚を否定している所だそうで、日本人である我々には縁遠い感覚ですが、俳句なら身近ではないでしょうか。
といった感じで、芭蕉の俳句には般若へのヒントが潜んでいます。
俳句もまた般若を突いてきて、自分もそれを感じているとなれば、『般若心経』にある「苦しみも無いし、苦しみが無いということも無い」とか、「万物は全部無い」ということも、ありうる感じがしてくるのではないでしょうか。
これを追求して詰めていったり、瞑想で感じたりするのが悟りへの道です。
今気づかなくとも、悲観することはありません。
ここでは、「今まで思っていたことが、ひっくり返ることがありうるかも」と感じてみてください。
試しに芭蕉の句をいくつか貼っておきます。
夏草や兵どもが夢の跡
閑さや岩にしみ入る蝉の声
荒海や佐渡によこたふ天の河
読まれていない情景が一つでも浮かぶならば、貴方の中にも般若は眠っています。