答え:「明治のエリートたちが作った言葉(訳語)の防波堤に、この国の人々が今もまもられているから」
正直、この「視点」は、私にとって「大変な驚き」でした。
明治の先人たちの「努力の結晶」に改めて感謝の念を覚えるとともに、現代の「皮肉な現実」を思わず振り返らざるを得ませんでした・・・。
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「ハロウィーンの喧騒」もひと段落したこの週末に、久しぶりにのんびりとつろぎながらネットサーフィンをしていたところ、偶然こんな動画を見つけました。
http://www.youtube.com/watch?v=2wcE3pyI6Lc
元々は、「2014年4月22日(19:00 - 20:58)」にTBSで放送された「所さんのニッポンの出番!」という番組の中の特集だったようです。
番組ではまず、「2013年国際成人力調査(英語能力判定国別スコア)」で「アジア30カ国27位」という無残な結果を踏まえ、「日本人が英語が苦手な理由」を探し始めます。
その「主たる理由(仮説)」とされたのは以下の3つですが、いずれも反例を用いながら「根本原因ではない」と否定されます。
①発音の違い
発音の問題はトレーニングで解決する。
②文法(語順)の違い
類似の構造言語を持つ韓国の人たちの英語力は近年著しく伸びている。
(日本人もやれば出来るはず)
③英語教育のスタートが遅い
最初は差がつくがその後はあまり差がつかなくなるというデータがたくさんある。
そこで取り上げられたのが、母国語が英語ではないにも関わらず、「アジアの中でも突出して国民の英語力が高い」ことで有名なフィリピンの事例です。
フィリピンでは、小学校の低学年から、学校で学ぶ大半の科目(算数、理科など)を英語で学んでいます。なぜなら、フィリピンでは、算数や理科の専門用語が母国語(タガログ語)に訳されていないものが多いからです。また、書店にならぶほとんどの本が英語の本であり、英語ができないと就職のハンデになるという厳しい現実があります。すなわち、英語力は「教育や就職に不可欠なスキル」であると言うことが出来ます。(ちなみに、この事情はマレーシアでも同じだそうです。また、インドのような多民族国家の場合は、英語が共通言語の役割を担っているそうです。)
一方、日本では、勉強もコミュニケーションも日本語で「事足りている」という事情があります。
明治時代の初期、外国と不平等条約を結んでいた日本を近代化し外国と対等になるためには、西洋の知識を得る必要があり、それには外国人に頼らざるを得ませんでした。そこで、当時の政府は学校を作り多くの外国人教師を雇いました。もちろん、今のフィリピンと同様に、授業はすべて外国語(英語)で教科書も洋書だったそうです。
でも、「西洋に追いつき追い越そう」と考えた日本人は、それでは満足しなかったのです。
「西洋の知識をより広く普及させるためには日本人の指導者を育成しなければならない」と考えた、福沢諭吉をはじめとする明治の知識人は「翻訳=新たな日本語(訳語)」を生み出し、西洋の文化と日本をつなぐことに心血を注ぎました。その結果、訳語が「元々西洋由来の言葉とは思えない」ほど日本人の間に定着していったそうなのです。
すなわち、現代の日本人は「明治の人々が残してくれた遺産」を無意識に使いながら勉強し、生活しているのです。
他の国では英語ができる人しか高等教育が受けられないのに対して、日本では(母国語さえ出来れば)大学に進学して「世界でもトップレベルの教育」を受けることが出来るのですから、それ自体は、世界に他に例を見ないほどの「とても素晴らしいこと」なのです。
結論:「この国で生きる日本人に英語は必要『なかった』」
さて、ここで私から皆さんに「問い掛け」をして、ひとまず本ブログ記事を閉じたいと思います。
質問:「私たち日本人は『これから』英語に対してどのように向き合うべきなのでしょうか?そして、その際の「英語教育」とはいったいどのようなものであるべきなのでしょうか?
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