昨日10月1日、福岡~大分出張から帰還した。今回はちょっと余裕がなく、記事もほぼ投下できずで申し訳なし。失敗した北九州の物件含め、趣味活もナッシンで。
そんなわけで、ようやく仕事から解放されて基本的には帰るだけの最終日である昨日の朝、かねてから気になっていた大分市内の物件を見に行ってきた。そう、拙ブログでは極めて珍しい、最新のネタである(笑)。
ホテル近くから
バスに乗ってね。なーに、全然遠くじゃない。
乗車時間10分少々、
ターゲット近くのバス停で下車。遠くに見えてるのが乗ってきたバスだ。
この道路は大分県道21号大分臼杵線。ターゲットは、ここから反転して背後方向にある。
まずは遠巻きに観察だ…って、
なに撮ってんねん?って感じ?
そうなりますわな。ここは事前にストビューでも見てきていたけど、実になんというか…いや、後で書こう。
ここまで接近して見ると、どうだろう?
同業者なら、「ざわ ざわ…」とキましたかね?え、まさか…って。
そのまさか、でしてね…。
肉眼では片鱗をすでに捉えていた。
わかりますかね…?
なんかあるでしょ?そう、ズバリあそこに、隧道のポータルがほぼ全埋まりで遺されているのだった。
引きでの観察終わり。
つうわけで、ぐるっと回ってターゲット側歩道に。遅ればせながら場所こちら。
おおお、これは凄い。何気に左側の擁壁、かつての隧道に続く往年の擁壁が残されてるんだ。
そしてその先の茂みの中に、
僅かにのぞくコンクリートポータル上部。わずかにアーチ最上部も見えていて、ガッツリ埋められているのがわかる。
この時期まだまだ植生旺盛なので、どの程度見えるのか危惧しながらの訪問だったんだけども、この程度でも見えてくれれば十分だ。ありがたや。
とはいえ、もうちょい見やすいアングルを探した結果がこれ。
中央部にアーチ部分の曲線が見えると思う。冬場になればもっとよく見えるはず。
さっき書きかけたことだが、それにしても、よくこの状態で遺したな、っていう感想。どうして完全に破壊して埋めてしまわなかったんだろう。いやもちろん趣味者的にはありがたい限りで、こうして詣でさせてもらってるわけだが。
こうして見ると、
「明らかにオカシイ」よね、そこだけかつての道型のままで。まあ行き交う車たち、誰も気にしてないのだろうけど。
そもそも個性的な名称のこの隧道の存在は、「tunnel web」さんのリストで知った。そしていくつかの先人の記録も。「隧道データベース」によれば、竣工年度は大正10年、延長47m、車道幅員3.7m、限界高4.5mとなっている。
周辺は大規模な明野団地が拓かれており、昭和49(1974)年、その開発・発展に伴う県道21号の拡幅改修によりその使命を終えたというこの隧道、現役時代にはバスも通していたという。
この情報は、大分市の「歴史マップ 明野の歴史をたどる」というpdfファイルを参照させていただいた。リンクフリーだったので、よければご覧いただきたい。
https://www.city.oita.oita.jp/o071/rekisi/documents/akenonorekisiteigasitu.pdf
隧道が穿たれた山をパッカーンして、
巨大な掘割をゆく現県道。言うまでもないが、この左手の土中に隧道が埋まっているわけである。
これより反対側へと回るが、先人たちのレポートでは一切その姿は見ることはできなかった。それには明白な理由があって…。
さあ、掘割を抜ける。
その気になる反対側は…
こう。
なんとなく感じ取っていただけるだろうか、この隧道西側一帯、完全私有地となっているのだった。そう、アカンやつ。
とは言えこの場所には特に立入禁止的な文言も措置もなく、気づかなかったテイで入って行けなくもないな…とストビューでの視覚情報から一縷の望みを持ってきたのだが、この時ちょうど写真右端見切れたあたりに、なにか積み込み作業をされている男性を発見。もし地権者の方であれば許可をいただけるかも、と、足を踏み入れて接近、声をかけた。
特に怒られることもなく対応して下さった男性だが、地権者ご本人ではないとのこと。ちょっとだけ隧道を見学したいのですが…と話すも、自分では何とも言えない(許可する立場ではない)と、そりゃまあそうですわな。
なので、遠くから見てすぐに退散します、ってことで即行動に移った。なんだかんだでいったん立ち入ったここ、このチャンスは逃せない。
男性とお話しした場所から振り返って少し進めば、
おおおおう。見えた!埋められてないぞ!
あれぞ、
ボラヶ迫隧道・幻の西側坑口!見られて嬉しい~!
存外に立派なコンクリポータルにちょっと驚いた。埋められていた東側も本来はこんな感じだったのだろうか。大正生まれという出自だから、後年の改修によるものと思われる。そして隧道からこちらへと続いている道路、これが県道旧道で間違いないだろう。
どう考えても、これ以上は接近できる状況でなかった。特に特徴のないポータルだったおかげで、悔しさもほどほど(笑)。
で、非常に悩ましかったのが二枚上の写真にも写り込んでいる、これ。
これさあ、位置的に隧道記念碑を疑いたくなる感バリバリでしょ!
もちろんこれもできることなら間近で観察・撮影したかったが、そこへ行くには見ての通りコンクリブロックを踏み越えて行かねばならず、この状況とロケーションでは到底無理。ダンチョネ 断腸の思いで自重した。
でもこれを書くにあたり、改めて元画像をズームして観察してみたが、うーん、どうも文字が刻まれているようには見えないな。なんだろう?彫りが浅くて判読できないだけなのか?
どうでもいい話だが、ダンチョネ節の「ダンチョネ」は、実際に「断腸の思い」に由来するという説もあるらしいぞ。
こうして、数枚の写真だけ撮らせていただいて、ご挨拶の上で速やかに敷地外へ退散~。
中央やや右側の奥に、西側坑口がある、という位置関係である。
この日は日曜日だったためか、この会社(あえて文字にはしない)は無人なようだった。隧道前の様子を見ても、間違いなくこの会社が一帯を所有していると思われ、逆に平日であればどなたかいらして見学可能かどうか尋ねられるかも?まあいずれにしても仕事の邪魔にはなるだろうから、節度ある態度が求められると思うが(おまいう・笑)。
またも余談だが、こちらの会社のホームページを拝見すると、創業は昭和35年、会社設立は昭和42年(同い年!)ということで、この時点ではまだ隧道と前後の県道は現役だったはずだ。山がパッカーンされて隧道が埋められ、旧道敷が払い下げられたようなタイミングで、この場所に移ってこられたのだろうか。もしかしたら、当初から倉庫代わりに使えるということで隧道も閉じられてないのかも。知らんけど。
ちなみに、上の写真撮影位置の背後くらいに、同じく県道の隧道として「松女ヶ迫隧道」という延長24mの隧道が存在したようだが、こちらは完全に開削され、跡形もなかった。
幻の西側ポータルを記録できたことで大満足、歩いて県道を市街地方向に下っていく。
しばらくするとこのように、
パッと展望が開け、市街地を一望。
隧道が完成した当初は、まさに峠の細道の隧道って感じだったんだろうなあ…と、時の移ろい、世の移り変わりを感じさせられた。いやあ、思ってたよりかなり楽しめた。
このあと、この日行われていた「おおいたサイクルロードレース」の影響で、帰りのバスが全然来ずにかなり焦ったのだが、なんとかギリで予定通りのソニックに乗り大分を離れることができた。
以上。