【4】より続く。
蕪坂隧道の反対側に到達した。市街地側を後にしてから44分経っていた。
2枚の看板含めて概ね同じような雰囲気だが、細かく見ると市街地側にはあった扁額スペース的な出っ張りがない(ならばあれはやはり扁額だったのではないかと)。それとポータル上のコンクリ土留めのサイズや、水抜き穴の存在などが相違点かな。
余談だが、
抗口前の電柱脇に立っていたポールは、電電公社のものだった。珍しいものなのかどうかは不明。
では再び…
お邪魔しまっすー(島田一の介ふう)。
こちらのほうが、コンクリ巻き立て部が長いかな。
上の写真右側、
漏水でコンクリが劣化してる。
こういう金属部材を見つけたりとか。
どういう用途だったかは不明。
振り返り~の、
鉄板の構図。
あーさて…
今のところ、こうもりさんは落ち着きを取り戻してくれているようだが…
と思ったのも束の間、
もう舞い始めたやん(汗)。
奥から聞こえる盛大な「囀り」は同様。どうもやはり、中央部あたりが一大コロニーになってるようだ。
そして!お気づきになっただろうか?ダブルトラックの轍がくっきりと残っている!
少なくとも、ここが車道隧道であった証。
ただこの手の残された轍ってかなり古いものまで残っていたりするから、いつのものかは不明だ。
ちなみに、市街地側に倒木があったが、もしあれがなければ、ジムニーなら完抜けして市街地側へと降りることは(技術があれば?)なんとか可能そうな気はするが、どうだったんだろう。あるいは抜けたものの隧道内を鬼バックとか…。
振り返り。
まだこのくらいしか入って来てない。
こんな岩の割れ目を見つけた。
人工の穴ではなさそうだったが。
でー、やっぱり、
本格的に乱舞し始めちゃった~(汗)。
この後もう少し進み、ほぼ先ほどこの辺まで来たかな?というあたりまでは到達したので即時撤収。写真なし。
特に変わり栄えするものは見つけられなかったと思うが、こうもりさんをよけるために頭をかばい、身をかがめての前身だったので、見落としはあったかもしれない…。
記事を書くにあたり、改めてこの隧道のことを調べてみたが、ごくわずかな同業の先人を除き、驚くほど情報が少ない。観光地に至近な立地だというのに何故?そんな中、唯一隧道の成り立ちにかかわる短い記述を見つけた。
「津和野日本遺産センター」のHP内で、津和野藩士・栗本里治が近世の津和野藩内の名所や風俗、食文化を書き残した「津和野百景図」全図の紹介があり、その第二十九図が「蕪坂」。その解説において、こう書かれている。
「(前略)昭和8年(1933)に堀家の出資によりトンネルが整備されたため、この峠は利用されなくなったが、今も峠へ通じる道や峠に遺構らしき場所が残っている。」
道路施設現況調査における1935(昭和10)年という記録とは2年の開きがあるが、これは着工と完成の誤差なのかも?そして重要なのは、「堀家の出資により」ということ。堀家は近世初期から近代にかけて銅山事業を中心に大きな力と財力を持った、わかりやすく言えば有力者の家系だったようだ。
その堀家がなぜ古道・蕪坂峠に隧道を穿ったのかはわからない。ただ、因果関係の有無は不明ながら、堀家がその本拠を構えていたのが、市街地から西へ数kmの津和野川支流・白石川沿いであり、市街地からはこの蕪坂越えが断然最短ルートとなるわけで、ここに車道を通すということには一定の合理性があったようには思われる。
いや、知らんけど。
ちなみに白石川沿いの堀家住宅は観光地となっており、「旧堀氏庭園」は国の名勝に指定されている。
堀家が銅山事業から事実上撤退したのが昭和8年のことだったというから、この隧道工事とほぼ同時期となる。その因果関係もまた不明(たぶん偶然?)だが、なんにせよ銅山事業で培ったノウハウで、坑道の掘削はお手のものだったはずだ。
ぶはー(同じパターン)。
美しい掘割に、思わず深呼吸。堪能した、いろんな意味で(笑)。
以上。