【23】より続く…わけでもないんだけど。
いろいろと調べる中で、今回辿った「町道扇谷奥山線」とその先の林道(作業道?)が現役だった時代の貴重な記録文を見つけた。日付は、平成10(1998)年4月5日。
正確には山屋さんが山に登られる前のアプローチ部分の描写なのだが、これはぜひご紹介しておきたいと、こうして最後に番外篇仕立てとした。
ただ、転載させていただくにあたって許可をいただこうとしたものの、サイトは更新が停まって久しいようで、管理人様の連絡先なども不明だったために、申し訳ないが無断転載となった。
「春風登山記」というサイト様の、「続・ぎふ百山」内にある「015杉倉」の頁。
ここに書かれていた文章である。改めて、管理人様に御礼申し上げます。
以下、適宜改行しつつも原文ママで青斜字 にて紹介させていただき、その間随時わたくしのコメントと写真を挿入する形でご紹介する。では、始める。
「(前略)根尾村に入り、さらに馬坂峠を越えて、藤橋村(旧徳山村)へ入る。峠を下って、白谷に架かる白谷橋を渡ると、まもなく国道417号線へ出る。
国道と合流する地点に白谷に架かる橋と揖斐川本流に架かる二つの橋がある。いづれの橋も渡らず、揖斐川本流の左岸をさかのぼる。ここから約3.2キロで旧徳山村の役場跡(本郷地区:西谷と東谷の分岐点)に着く。」
記事に関係ないイントロ部分だが、せっかくなので旧徳山村に入るここから紹介したい。これは、わたくし手持ちの古いサテライトマップルだが、右下の馬坂隧道から。
国道と合流する地点やそのロケーションが、地図ではそうなっていないように思う。道の移動や新設があったのか、間違いなのか。
今や水没してしまっているため、知る由もない。ご存じの方はご教示願いたい。ちなみに、左上のほうに小さく青●を打っているが、あそこが狂小屋である。
「揖斐川と白谷合流点から、8.3キロで扇谷の出会いに到着する。ちょうどそこに「左カーブ池田町林道経由」という案内看板がある。国道417号線は扇谷に架かる橋を渡って、90度左にカーブしているが、はしを渡って右へ90度曲がる。ここから扇谷林道となる。」
いよいよここからが、今回の探索部分となる…が、ここは今や水没してしまったエリア。櫨原望郷広場にあった簡易な地図では、このようになっている。
扇谷橋を渡り、櫨原集落へ向かう国道は左へ、そして扇谷林道は右へ。
これを視覚イメージに落とし込むと、
こんな感じ。あくまでイメージですぞ。
ちなみに本文中で「扇谷林道」との表記が使われているが、これが当時の正式名称だったのか、あるいは慣用的にそう表記されただけなのかは不明だ。
「この扇谷林道入り口から約1.6キロで1つ目の橋を渡る。いままでは扇谷の右岸を走っていたが、ここで橋を渡って左岸へ行く訳である。」
この「1つ目の橋」も、水没してしまっている。
「さらに約1.5キロ進むと、(扇谷林道入り口から約3.1キロ)右側に作業小屋が3棟ある。」
これ、距離的に考えても、ほぼ間違いなく
現在では町道起点となっている、この一画のことだと思う。
今建っているのは例の倉庫ひと棟だけだが、「作業小屋3棟」なら優に建てられる(建っていたとおぼしき)スペースはある。
「さらに約2.2キロ(扇谷林道入り口から約5.3キロ)でキャンプのバンガローのような小屋が右側に3棟ある。」
これは、
きっとここのこと。続く表記(下記の、カラカン谷出合までの距離)からも間違いないだろう。
「ここから0.4キロ(扇谷林道入り口から約5.7キロ)で、カラカン谷との合流点に到着する。左側に青いトタン屋根の小屋がある。右から流れ込んでいるのがカラカン谷である。東カラカン谷の源頭方面に磯倉の西側のガレが見える。」
きっとこの頃にはすでに「狂小屋」なんて地名はアレなので消し去られていたはずだ。
「左側」に「青いトタン屋根の小屋」というと…この写真だと右側の、この溜池?「小屋どこ遺跡」調査跡?のところだと思うのだが。
ちなみにこの日のイメージ通り、やはりこのあたり、青い屋根の小屋が非常に多いんだな。当時トタンといえば青しかなかったっけ?
「さて、ここから左へ曲がって橋を渡る。約0.4キロ(扇谷林道入り口から約6.1キロ)で左側に白壁の「たろべえ山荘」がある。」
この表記は非常に気になった。そんなものはまったく見覚えがなかったのだが、これも「左側」と距離から考えるとほぼ間違いなく、
わたくしが「神社跡では?」とか書いていたここしか考えられないと思う。
「たろべえ山荘」という名前だが、山小屋だったのだろうか?あるいは門入と戸入の間にある「土日山荘」のような、個人の小屋?ここの敷地面積を考えると、後者のほうがしっくりくるサイズではある。
「さらに0.4キロ(扇谷林道入り口から約6.5キロ)進むと、営林署の「通行止」の看板と、岐阜県の「砂防指定地扇谷」という看板がある。ここで林道は90度曲がって右へ延びている。」
この二枚の看板とは、きっとこれらだな。
後者は草ヒロ軽トラのそばに落ちていたが、やはり以前はちゃんと建てられていたんだ。なんか胸アツ。
「ここから約0.8キロ(扇谷林道入り口から約7.3キロ)進むと、「扇谷第2号橋」がある。」
「さらに0.2キロ(扇谷林道入り口から約7.5キロ)で、「扇谷第3号橋」、さらに0.1キロ(扇谷林道入り口から約7.6キロ)で、「扇谷第4号橋」がある。」
現地でも幾多のカーブミラーが語っていた通り、こんな荒廃した橋でもかつては車を通していたのだ。
頭ではわかっていたことだが、こうして実際に車で通った人の記録を見ると、諸行無常を想わずにいられない。
「ここから約0.6キロ(扇谷林道入り口から8.2キロ)で林道終点である。」
やっぱり、行けばよかったねえ…。
わたくしの行程としてはここまでだったが、せっかくなので最後、作六ツシまで追ってみよう。
「ここまででも相当な悪路であるが、ここから先は、4輪駆動車でも無理という悪路である。ここに車を止める。
ここが「作六ツシ」という地名のところらしい。ここで谷は2つに分かれている。左の谷の前方はるかに一条の滝が望まれる。(後略)」
うん、やっぱり悪路だったのね、と意味なく安心(笑)。
記述はここから、いよいよ杉倉へのアタックへと移っていくのだが、引用はここまでとさせていただく。
どうだろう、今や実態として「死んだ道」に等しいこの道が、にわかに生き生きと立ち上がってくるような気がしないだろうか。実際の探索後にこの文を読んだとき、そのように感じて嬉しかったので、少しでも共有できればと、ここにご紹介した次第だ。
それでは今度こそ。未曽有の長篇だったが、以上で完結。