【前篇】より続く。
渡りながら、上流方向を見ると…
【前篇】でスルーしたやつが。
コンクリート製の…あれは旧道遺構?ではないと思うのだが…。ちゃんと写真撮ってなくて記憶も定かでないが、写真撮ってないってことは特に見るべきものがなかったのだと解釈(笑)。
で…
渡り切って振り返り。
やはり威圧感あるね~。
右上に見えるのが、停めたレンタカーと架橋記念碑。しかし、こういう「橋の前後とも直角コーナー」って、個人的に大好き。写真も撮りやすいし…(笑)。
右の親柱。
「太田橋」。
そして左側の親柱。
欠損しているものの判読は可能。「昭和参拾参年九月吉日」。
「吉日」って表記はなかなか珍しい。他ではあったかなあ…。
上流側からのサイドビュー。
こうして見ると、路上からの眺めとは裏腹になんか脆弱感があるような。
橋のご紹介は以上。改めて
二基ある架橋記念碑を見てみよう。
まずは向かって左。
実に立派な記念碑だ。上に「太田橋」、下に「架橋記念」、「昭和三十三年九月竣功」、「太田橋連中」と、読みやすいきれいな字体で刻まれている。
裏側の写真がないということは、おそらくなにも刻まれてなかったってことかと(笑)。
台座部分には
やはりというべきか、芳名録。
右端には架橋委員などの指名が刻まれている。そして、どうもこれら架橋において中心的な立場にいたであろう人たち自身も、寄附者の中に名前があるようだ。だいぶ埋まってるので、断言はできないけど。
そしてもうひとつ、向かって右の記念碑。問題はコッチ(笑)。
わかりにくいかもだが、上には右書きで「太田橋高架」。
「高架」ってのは現代の意味ではなく、「高」らかに「架」ける、の意だと思われる。
その下に「紀念碑」、そして「昭和三年十一月」。なんと旧橋の存在があっさりと確定(笑)。
先ほど紹介した、上流側に存在するあの遺構は、やはり旧橋のものなのか?
い~や、やはり違うと思う。
あそこに橋が架かっていたとしても、状況証拠的に極めて簡易な、流れ橋に毛の生えた程度のスペックだったと思われる。こんな立派な架橋記念碑を建てるような橋が架かっていたとは到底思えないのである。
おそらくは現橋と同じ位置に架かっていた旧橋が流失したかなにかで、架け直されたのだと、そう推測しているが…真実はいかに。
こちらも、台座部分は
だいぶ埋まってはいるが、おそらくは寄附者の芳名録だろう。
それにしても二代にわたって架橋記念碑が建てられるなんて、望まれ求められた橋だったのね~。
最後に、この猛暑にお贈りする納涼画像。
この日から2ヶ月と20日ほど経った2013年1月26日、おろろんさんと敢行した雪中行軍(笑)の際に、ちらっと立ち寄った際の写真だが、
違いすぎる(笑)。
最初に訪ねた11月の時は、秋晴れでおだやかやったからな~。
痛いほど暑いこの時期、
この寒々しい根羽川の景で、少しでも涼しくな~れ(爆)。
以上、完結。