【5】より続く。
鬱蒼たる
第三隧道・宇治田原側。
念のため、三度目登場(笑)。
第三隧道でもって現道よりも一本北の谷へ抜けた明治道は、抜けたところでカクッと左ターン、第二隧道へと向かう。
つまりは冒頭の写真だと、撮影位置から右の方向に進んでいくことになるのだが、そのターン内側?に、
名物が鎮座している。
いや、鎮座って言わないかコレ(笑)。
以前に草ヒロネタとして記事にしたこの個体、なんて車だったかな?この手のホイールカバー、時代を感じますなぁ(笑)。
記事とは別カットで、リアスタイルも。逆さやけど(笑)。
果たして車種は何なのか、皆さんで推理してみてください(ビフォーアフターの江口さんふう)。
第三隧道からは、ものの数十m。
山仕事のためか、キレイに刈り払われた道の先に、
うずくまるように。
ようやくお会いできました~。
奥山田第二隧道・奥山田側坑口。
この日辿ってきた三本の隧道の六ヶ所のポータル、その大トリとなる。しかし残念ながら、ここもまた一見してコンクリートで改修されているのが知れた。しかも、その改修もまた、エライことになってるし…。
遠目にはそういう仕様なのかと
思ってしまうぐらいにガッツリと、
坑口両側でコンクリートが抜けてしまっている。右側なんて
このように貫通しちゃっているし(汗)。
どんだけ粗悪なコンクリ使ったん?いや、それ以前になんか設計段階、強度計算段階で間違ってなかったかね?
洞内はもちろん、反対側で確認した通りだった。つまり~、
古タイヤの奔流(笑)。
どういう状態なんやこれ。こんだけの量、個人のものではありえないし、完全な産業廃棄物でしょうよ。この隧道、今は宇治田原側の資材置き場所有者に払い下げられてるのだろうか…?なのだったら「不法投棄」ではないけど…残念なことには変わりない(笑)。
まあ…とにかく。
これをもって、奥山田の旧隧道群三本の全ての坑口を確認完了した。
結果的に、扁額が掲げられていたのは第一隧道の宇治田原側(「刻露清秀」)と、第三隧道の奥山田側(「幽谷窃然」)のみ。つまりは、どっちから来ても「最初と最後」のみ。
この事実が、三本の隧道が「奥山田新道」としてまとめて建造され、また三本まとめてひとつの目的(奥山田への近代車道開通)のために生まれた、という事実を、ことさらに強調しているような気がする。
また、意匠を凝らした煉瓦ポータルが奢られた三隧道であったが、現在それが見られるのは第二隧道宇治田原側と第三隧道奥山田側のみ。
他がすべて改修されており、また第三隧道宇治田原側の「無残の美」状態を見るにつけ…青木市太郎氏を貶める意図は全くないのだが、もしかして施工が甘かったのか?と思ってしまう。いや、あるいは使用した煉瓦の質があまり良くなかった?
何にせよ、同じ明治期の煉瓦物件でも、「お国」が関わった鉄道関連の構造物や建築物などに比べると、いろんな点で「ユルかった」のではないかと想像。
が、長く隠れ里的な陸の孤島だったとされるこの奥山田に初めて通じた車道、それを大いに祝いたい、立派なものにしたい、という気持ちは、よくよく伝わってくる、そんな極めてドメスティックな物件群でありました。
最後に、「旧道倶楽部」における永冨氏の報告書もぜひどうぞ。
記事作成に当たり、参考にさせていただいた。ありがとうございました。
以上、完結。