【大川寺駅】篇より続く。
前回最後のこの写真。
大川寺ホットスポット、第四の物件であります。
逆アングルで、駅ホームから見てみますと…
いや~、ニヤニヤが止まりませんわ(笑)。
最近はあまり言わないけど、わたくしの橋嗜好の原点は、「自分より年長のシンプルな桁橋」。コレまさにドンピシャ。
向こう側に並んで架かっているのは、現道(富山県道35号立山山田線)の橋。続く立山橋への擦り付けのため、勾配が付いている。
お約束の親柱チェック。束柱も含め、根元から上に向かって少し細くなる形状が採用されていて、軽やかな印象を受ける。
まずは向かって左。
「昭和四年三月竣功」。
想像以上に古かった。昭和ひとケタか!
続いて右側。
「久わんkwガフッ」 痛ッ!!噛んだ!(爆)
「久わんくわうは志」…か?この時点ではどんな漢字が充てられているのかわからなかったが、何とか読めた。変体仮名の解読技術、習得したいなあ…。
そして、1~2枚目の写真でもわかるように、
大きなアーチを四つ連ねた欄干の意匠が素敵。
アーチの境目にも、さりげない意匠が施されている。
こういう「無駄」が本当に素敵だ、昔の橋っていうのは。それにしても、「自在に成型できる」コンクリートってものの登場は、やはり画期的なことだったに違いない。
でもやっぱり、県道の旧道だと思うので、あの先に架かっていたはずの旧・立山橋の架橋位置も、この橋と同じく今より低かったんだろう。
コレも「大川寺ホットスポット」を象徴する1枚ではある。
左の親柱は、東側と同じく竣功年だった。そして右側…。
実は、一瞬読めなかった。が、先ほど判読した変体仮名と重ねて、理解した。
つまり、「観光橋」。
この名前、地味に感動した。めっちゃストレートなようで抽象的なようで、およそ橋につけるような名前でないような気がした。
さらに、「観光」って言葉が昭和初期から使われているって感覚がなかったので、それが凄く意外だったのも覚えている。
で、帰ってから調べてみた。
ウィキ先生によると、「観光」という言葉は中国の易経内の一節を語源として明治時代から存在し、大正年間に「tourisim(ツーリズム)」という外来語の訳に充てられた頃には「(前略)きわめて限定的にしか用いられず、むしろ今日で言う外国人観光客誘致、インバウンド誘致といった意味合い」に過ぎなかった、という。
1930(昭和5)年、浜口雄幸内閣のもとで「国際観光局」が創設されたが、これは外国人客を日本へ誘致するために設置された鉄道局の外局であり、まさに上記のニュアンスどおりの意味で「観光」が捉えられていたことを示している。
この観光橋の竣功は、国際観光局創設の前年である昭和4年。果たしてどのような意味を込めて、この名がつけられたのだろうか。
先述の易経の一節、正確には「観国之光,利用賓于王(国の光を観る。用て王に賓たるに利し)」だという。うーん、古くからの信仰の山だった立山は「国の光」に値する、ということなのか~?
ちなみに、これに先立つ昭和2年、立山(雄山)頂上直下、三ノ越の巨岩に昭和天皇の御製「立山の空にそびゆる雄々しさにならえとぞ思ふ御代の姿も」を刻んだ歌碑が建立された、という事実があるのだが、このあたりが「王に賓たるに利し」につながってるような気も…。
まあいろいろ推測することしかできないが、こういうのとっても興味深くないですか?いわゆる知的好奇心っつうの?(笑)
最後に、コチラ
現・観光橋。
親柱によると、昭和三十八年三月の竣功となっていた。
ちなみにウィキでは、「観光」という言葉が国内・国外を区別しないで使用されるようになったのは、戦後連合国の占領政策が終了する時期、日本人の国内旅行が活発化する頃からである、とされている。
つまりこの新旧の観光橋、同じ名称ではあってもそれぞれの架橋時期の間に「観光」という言葉の概念が変化を遂げていた、ということになり、これもまた実に興味深い。
「大川寺ホットスポット4連発」のシメとしては、イイ感じに終われたのではないでしょうか(爆)。
以上、完結。