【前篇】より続く。
対岸から見て非常に気になった基壇部。アソコに行きたい!
というわけで、再度崖登り(笑)。
いやほんと、なかなか険阻な立地でね…。
よいしょ~!
まずはココまで登って、ようやく煉瓦部分の基部へ到達。いやしかし、コレ
イイねぇ!
まるで古代遺跡のようじゃないか!!
足元に注意しましてー、
キター。
気になっていたあのデリケート・ゾーン(爆)が遂に眼前に。70度くらいの角度で起立した壁面に4本のボルトが飛び出した支承部と思しき部分が3か所。やっぱりコレは絶対にアーチか方杖型の橋だったはず。どっかに昔の写真ないかなあ…。
そして見上げれば
ナイス持ち送り。こんな装飾のついた橋台、イイねぇ~!
あ、今さらですけど、持ち送りっていうのは、あの段階状にせり出した積み方のことです…って解説遅っ。
で、よくよく見ると持ち送りの上部にはさらに石材による装飾が見られる。
こんな感じ。いや~こんな目に触れない場所にこだわりの仕上げ!
とか言って、上ばっかし見てられない。
地味に危険。
基壇部、平らではなくて絶妙に川側へ傾いているので、上に気を取られてのけぞっちゃったりしたらサヨナラだ。おーこわ。
ここから対岸を望む。
お~まさに先ほどこっちを見ていたトコですよ(当たり前)。ちなみに対岸には橋の痕跡は一切見られない。そして、存外斜めに渡河していたことがわかる。
さて、こっからはあんまり写真撮ってないのだ。なんでかというと、極めて厳しい登攀ルートをチョイスしたからだ。今回の4枚目の画像の位置辺りから見ると、こんな感じ。

【前篇】で降りる前に足元になんか見つけた、と書いたのを覚えてらっしゃるだろうか?それが一番上に写っている穴ぼこ。正確に言えば、アレを鑑賞するためにこのスパルタなルートとなってしまった、さらに正確に言えば、アレは穴ぼこじゃない。
石桁橋?暗渠?の、なれの果て。
行き場がないので、桁下に避難(爆)。
わ
り
か
し
決
死
の
ル
ート(笑)
帰ってから調べてみた。まず森下仁丹さんのHPに掲載の社史をひもとくと、看板にあった通り
「1917(大正6年)5月、第二工場を京都府相楽郡瓶原村に建設」
の記述。太平洋戦争終戦時、各地の森下仁丹の工場も罹災し、残されていた工場はこの第二工場がほぼ唯一であったらしい。
そして問題は、次に第二工場が登場するこの記述。
「1953(昭和28)年8月、京都南山城地方風水害により、第二工場の大半を流出」
そして、迂闊にも自分は知らずに見逃してしまったのだが、水害から60年となる今年(2013年)の夏、「南山城の災害史」なる企画展があったらしいのだ。その展示パネルの中にこういう写真があったというから、しまったー見学したかったなあ…。川中に散乱していた巨大なコンクリ塊や破壊された護岸の残骸はこの時のものなのだろうか?
で、やはり初代・仁丹橋もこの時に流失し、その後架け直されたのが現在の仁丹橋である…ということも書かれていたらしい…全部又聞きやんけ(爆)。
何の気なしに渡ってみた仁丹橋から紡ぎ出された、発見の連鎖。ごくライトな橋ツアーのはずが、全く予期せぬ発見にテンションMAXとなった、春まだ浅き如月の日。以上、2013年個人的感動ランキング第1位物件をお送りいたしました。
以上、完結…
と見せかけて、まさかの【番外篇】。越年するぅ~(爆)。