【前篇】より続く。
西側(波路側)から
東側(上司側)に抜ける。
洞内はモルタルで改修されているが、さすがにこれは当然だろう。
なにしろ、満130歳!だからして。
抜けて、
上司側。
こちらもまた、堂々たるお姿。もう非の打ち所がない。
こっちの扁額には
こちらもまた、堂々たるお姿。もう非の打ち所がない。
こっちの扁額には
「農商通利」
と刻まれている。こちらもまた、第三代京都府知事・北垣国道による揮毫である。
前篇で書いたように、この隧道は北垣による「京都宮津間車道開鑿工事」の一環として建造されたのだが、結果としてそうなったのであって、当初は上司町による栗田(くんだ)峠の開鑿工事計画に過ぎなかった。
その計画を主導していた人物こそが、
記事冒頭で紹介した石碑に刻まれていたあの人、賣間九兵衛(うるま・くへい)だったのである。
その計画とは「水力によって峠を切り下げる」(!)というものだったが、工事の資金集めは難航し、明治13(1880)年4月には、賣間氏、波路村、獅子崎村、上司町の四者により京都府へ願書を提出し、費用負担を請願した。
この請願は許可されなかったものの、翌14年4月、京都府会は京都から宮津に達する車道開鑿を決定、そして栗田峠の開鑿は京都府による工事として行われることになったのである。
そして工事の方法は切り下げから隧道工事に変更となり、ようやく1886(明治17)年に隧道が完成した、と。その最後まで、賣間氏は陰に日なたに関わり続けた、という。
栗田峠開鑿計画の実現のために賣間氏は多額の私財を投じ、多くの負債を抱えることになり、その返済に追われた。昭和初期以前の土木工事には、しばしば「地元の篤志家」が登場するが、この賣間氏もまさにそういった人物の一人だったのだ。
隧道完成から23年後の1909(明治42)年、
改めて賣間九兵衛への顕彰碑が建立されたのだった。
それにしても、完成から23年後でもまだ明治時代。いかに古い隧道であるか、改めて感じさせられる。
さて、隧道の上司側には石碑はない。そのかわり
…と言っては失礼やな(笑)。
向かって左手前に
お地蔵様が。
かつての峠道にいらっしゃったのを移したのだろうか。いつものように、手を合わせた。
そうそう、かつての峠道といえば…。
当初の栗田峠開鑿計画が「水力によって峠を切り下げる」というものだった、というのは先述したが、1879(明治12)年6月から賣間により峠の頂上まで水路を開く工事が開始され、同12月に完成した、らしいのである。
ということは?現在も隧道上のどこかには、その時の遺構が現存していたりするのだろうか?
それにしても当時の自分、洞内の写真をろくすっぽ撮ってないのには恐れ入る。これまた要再訪物件ですなぁ…。その時には、上にも登ってみようか。
130年間も現役を張る、奇跡の明治隧道。
お近くへおいでの際は、ぜひ表敬訪問されるとよろしかろう。
以上、完結。
記:
この記事内の解説部分は、「丹後地区広域市町村圏事務組合2市2町政策連携会議調査報告書 『近世・近代における郷土の先覚者』」を参照・抜粋・引用させていただいた。








