【前篇】より続く。
思いのほか苦労したが、ようやく隧洞らしきもの発見!アレに違いない。
さっそく接近。
間違いない。しかしあの姿は…。
隧洞の下は急な斜面になっていて、いわゆる一般的な農業用水の姿とは一線を画していた。
正対する。
コレはすごい!
堅牢極まりない石組の坑門と、谷積み(いや、乱積み?)の擁壁。プチ苦労してたどり着いた甲斐があった~。
そして、接近してみて嬉しさアップ(笑)。
扁額があった!
明治期の土木工だけに、おそらくあるだろうとは思っていたが、実際に確認するとやっぱり嬉しい。
擁壁の石の間に照明を固定して…
扁額ライトアップ・バージョン(笑)。
どうかね、この堂々たるたたずまいは。一片の綻びも見当たらない状態の良さにも驚愕だ。そして洞内の様子が…
これはやはり、
石造。
上部は石桁でビッシリと護られている。おそらく今目にしている部分は、厳密に言えば暗渠部分なんだろう。すなわち、まず開削されて石桁を乗せ、埋め戻した部分。本当の隧道部分はもっと奥にあるのだろうが…。
隧道部分はやはり素掘りなんだろうか。まさか総石造じゃあるまいな?知りたいけど…
フラッシュ・オン。
外観から想像つくだろうけど、とにかく低い。完全にしゃがんでしまわないと頭をぶつけるレベル。
滋賀県のHP内、高島農業農村振興事務所 田園振興課の記事によると、この隧洞の延長は200mほどあるってことだし、奥に進んでいこうとはちょっと思えない(笑)。
ましてや現役の用水施設でもあることだし、探索は入口周辺のみにしておいた。水が流れてなかったから、チャンスだったのかもしれないけど。
森西地区は、長く水不足に悩まされてきた土地で、田畑に効率よく水を引くことが悲願となっていた。【前篇】で触れたとおり、この山林を所有していた水口善蔵らの尽力により、(紆余曲折を経つつも)明治33年、ついにこの稲山隧洞が完成、山向こうの山田川からの取水・導水が実現した、と。
さぞや当時の人々は喜び祝ったことでしょうな…。先人たちの労力と努力の賜物には、常に心打たれる。
紹介を後回しにしてしまったけど、
付近には整形された石がゴ~ロゴロと。
これは明らかに、擁壁築造または改修の際の余り石材のように思われる。
最後に、隧洞上から。
まるで斜面から突然川が現れるような。面白いな~。
遊ばせていただいたことを感謝して、隧洞を後にした。この日は、取水側の坑口は見に行かなかったので、そのうちそちらも拝みに行こう。
実りの秋を迎えようとしているこの光景。
今しがた見てきたあの隧洞が、この地を今も潤しているのだと思うと、感慨深いものがあった。
以上、完結。