2010年8月28日、京都府南丹エリア徘徊。この日のネタを記事にすんのは初めて。古いネタばかりですが、臆面もなくリリース(笑)。
国道477号線を東進、見えてきたのは
黒田トンネル。
まあなんてことない、ごくごくフツーの現代トンネル。これ自体に特筆すべきものは何もない…
のだが。
我々は気づかなくてはならない。
その右側のそこはかとない気配に。
場所はコチラ。
右側の様子は、こう。
いかにも自然な感じで、お地蔵様がいらっしゃる。
だがその背後の斜面が不自然。斜面の上に見えるは…アレですよ!
さっそく登ってチェックしたらば、それは
まさに埋められた旧隧道。しかも絶妙に開口!
正対してみると、
扁額が目前に。そこには「八光洞」と刻まれている。
古い隧道には、正式名称以外に「~洞」という別称を扁額に頂くものもあり、ここもそのひとつだったというわけ。個人的には、ワンランク上のプレミアム感を感じる(コレとか・笑)。正式名称は後ほど。
そして開口部からは、激しく風が吹き出していた。ってことは、貫通してるってこと。
さっそく様子を…。
おおお、向こう側はしっかりと開口してる。ラッキー!
さっそく向こうへまわってみる…その前に。時は8月末、酷暑の真っ只中。この穴から吹き出してくる冷たい風があまりに心地よく、ここでしばしくつろぐ。
同業者あるあるのひとつ、「廃隧道涼み」ナリ(爆)。
ー…ってわけで。
反対側(東側)へまわってきた。
フェンスで封鎖されている…が脇が甘い。コレが「心の隙間」ってやつかぁ(笑)。
こうして見ると、こっちもガッツリと埋められている。
が、内部探索には必要十分な開口具合でございます。
東側扁額。
「黒田隧道」。
コレが正式名称だ。まあ現トンネルが「黒田トンネル」なんやから当然やけど。
いかにも、って感じの
昭和中期以前的なたたずまい。どんだけ新しくても昭和30年代前半まで、ってとこか?しかし銘板の類いはなく、扁額にも名称以上の情報はない。
だが、隧道に関して、後ほど驚くべき情報が得られた。まあそれは最後にね。
土砂を乗り越え、洞内を拝見…。
おおお~。一望のもとに洞内が。
「なんかヘンなもんあるぞ?」がファースト・インプレッション(笑)。廃止後、何かに使われていたのかもしれない。で、今思ったのは、向こうの開口部、あんなにちっさかったのに、もっと広く開いてるように見えるな、ってこと。
歩行者用の白線が残っているが、見るからに狭い。内部での車の離合は、当然不可能。
うーん、しかしコレ、
何かねえ~?
よく覚えてないけど、淡白だった当時のわたくしは、たしかここから奥には行かなかったようだ。現に写真がないし。実際のところ、(2枚上の写真でもわかるように)肉眼では洞内の奥まですっかり見えていたし、特にそそられるものがなかったんだろうと思われる。
振り返った図。
しかし中途半端な埋め戻しやな~。業界的にはありがたいけど(謎)。
脱出。
こうして埋められし旧隧道を美味しくいただいた後、たまたま300mほど東の自販機に立ち寄ったのだが、その一角に立てられた看板を何気なく見たら…
思いもよらぬ情報が!
どこって?左下!!
トンネル開通
明治39年から黒田水力発電所建設の一大事業がなされており、黒田村は村治の最盛期といわれ、牛車の通る新しい橋をかけ、道の拡幅工事も進み難関の宮坂峠は、当時約4kmにも及ぶ発電用水路の工事中であり、その同じ工事者によりトンネルが施工された。明治42年に京都府下初のトンネルが、黒田発電所竣工と同時に開通した。黒田交通史を飾る大事業であった。
おいおいマジかよ!?
いや実際のところ、この一部は間違っている(笑)。京都府下最古の道路隧道は、明治19年建造・宮津市の栗田隧道(撥雲洞)のはずで、他にも明治36(38?)年建造、京都市山科区の花山洞とかもある。
しかしながら。最古は間違いとはいえ(笑)。
この黒田隧道も、まさかの明治隧道だったというのだ。コレには驚いた。そうなると、先ほど拝んだあの姿は(看板に載ってる現役時の姿も)、どうみても明治隧道のそれではなかった。昭和に入ってコンクリ改修されたのだろう。
いや~しかし、わからんもんですな~。ナメてました。
以上、完結。