今熊野の古レール跨線橋より続く。
跨線橋から望む、東山隧道・京都側。
そういえば前回、地図を忘れておりました。コチラ↓
前回書いたように、左の2本が大正10年完成の初代東山隧道。なのだが…
なんか様子が…
やはり。オリジナルの坑門を覆い隠して、コンクリート構造物が付加されている。上が草むらになっている部分が付加区間だと思われる。コレは何だ?
おそらくだが、これは蒸気機関車が爆走していた時代の遺構、いわゆる排煙装置ではないかと。
京都駅からこの東山隧道まで(おそらく隧道の山科側坑口付近まで)はずっと登り勾配になっている。ほぼすべての列車が京都駅には停車しただろうから、勢いをつける間もなく、鴨川を渡るとすぐ登り始めるこの区間、蒸気機関車は盛大に煙を吹き上げたに違いない。
で、新トンネルとの間にある、「明らかになんかありました」ふうの謎のスペースと、そこへ降りる階段遺構。これが気になる。気になるんだが、調べてない(笑)。…昔の航空写真とか地図を見ればわかるかも。
というわけで、坑門の隠された東山隧道。やはり真の姿をご紹介しておきたい。
で、やって参りました。
山科側坑門を見下ろす府道から、
ドーン!と。カッコいい~!
我が大好物の、単線並列隧道でございますよ。何といっても両坑口の間の「あのスペース」(名称不明)が好きだ!
煉瓦ポータル、盾状迫石、帯石、笠石、隅石とのバランスとマッチングが素晴らしい!
そして両坑口上には、それぞれ扁額が掲げられている。
まず向かって左。
「古今相照」。
この言葉は、山科区誕生30周年記念誌のタイトルとして採られたほどに、住民には親しまれている…
とは思えないが(笑)、
記念誌という性格とこの言葉がぴったりマッチしたのでしょうな。
そして向かって右。
「山紫水明」。
これはまた、プレーンな(笑)。
どちらの扁額も、揮毫が「従三位 勲一等 長谷川●●」と書いてあるように見えるのだが、画素貧弱写真だけにお名前判読できず。時の鉄道大臣かと思ったけど、違うようだし…。
ラスト。今となってはなかなか貴重な
湘南色の113系。
今でもまだ、たまに走ってたっけ、湖西線で?
以上、完結。