こんにちは。

 

佐藤直子です。

 

久しぶりの投稿となりましたが、今とても ゆるしの経験がくっきりしているかの日々を過ごしています。

そんな軌跡(奇跡ではなく..)のさなかを、シェアさせていただこうと思います。 

 …とにかく私は朝から祈っています…

「息子と(息子の)聖霊の学びの今を、私が邪魔をしないように助けていてほしい」と。

 

 <第1部>

 

息子は今大学受験の真っ只中です。秋が過ぎ、冬になり、新年を迎え、月日は経過しながら、息子は息子のペースでいつものように自分の部屋で(たぶん)勉強をしている日々でした。 

わたしに対しては、顔が会えば「うっとうしい!」と嫌そうな顔つきと横柄な態度で、ほとんど会話すら相談すらもなく、自分で方針をたて臨んでいました。   

そんな息子を前にし、ただただ わたしは、信じ続けられることができる わたしであるよう祈ること、これがわたしの日課でした。

信じ続けられること』とは何か…息子の完全性、要するに 今そのままで完全な存在であること。今いるべきところで、やるべきことを経験させていただいている真実。 

 この抽象的ではありますが、力強さと同様に わたしが思い出せ、わたしを支えてくれたと今でも思っています。だからこそ、わたし自身を彷徨わずに(感情任せにしないで) また、自分でも気づいていない思い込みや、必要以上な心配をむけそうになることに、注意をはらう力添えになっていました。

道中には、息子が(わたし的に)長時間スマホやパソコンを眺めているだけで、わたしは勝手に「勉強をしていないのではないかしら..」「時間をもっと大事に使えるようになればいいのに..」などなどと、わたしの不安なる思いが、入りこみ、すると次々 息子の行動についていちいちジャッジを被せていたこともありました。

息子を見て心配がムクムク湧き上がるのではなく、わたしの愛ではない心配なる思いが、息子の行動のアレコレに原因をすり替えているだけなので、注意をはらう(心配に気づく)は、わたし側なのです。
 いよいよ受験期冬が来ました…わたしは、ある気づきに出会うことになりました。   

 それは、受験という機会は息子の(心の)経験のはずが、いつのまにか、まるでわたしの経験と願望と化していたという気づきでした。

それは…

1月に入ると、親せきや友人から、絵馬に息子の受験のことを記したよ~!等、大変有り難いお声かけをいただくようになりました。親としても祈願に行ってみましょう~という運びとなり神社へ出向いてみたりもしました。受験生の親らしいことをしてみて、ささやかな満足を感じてみたり、ここまでの息子との日々を振り返り、懐かしんだりもしました。

奇跡のコースを学ぶ過程では「合格できますように…」という祈りが、実は説得力がないことを知ってしまった  わたしは、いざ合格祈願に出向いてみても..はて?何を祈る?となってしまうというありさまでした。

「ありがとうございます。」という感謝や「この経験を今息子同様、喜びと共に受け取らせていただいています、ありがとうございます。」とか、挙句の果てには「わたし達皆の心の願いは必ずや聞き届けられていることを信頼します。信頼し続けられるわたしでありますように、助けていてください。」など。

これらの祈りを捧げるとき、わたしの心でしっくりと優しく広がる感覚は経験させてもらえていますが、どこか微かな部分では?この余裕さのままで、息子の受験を関わっていたいという理想と化してはいない?ともよぎりました。なぜなら、この時まではこれで良かったからです…。


 2月に入り、いよいよ受験が始まりました。「息子にとっては、本当に素晴らしい経験の一つ一つだわね~」などと、余裕さで眺めていたあの合格祈願に行った頃とは、随分趣が変わっている自分に気づき始めていました。間違いなくよこしまな感情が潜んでいるとわかりました。焦り出したのですね…わたしが。

だからなのでしょうか??笑     

面白いタイミングがやってくるのです。面白いタイミングとは、わたしの焦りをあからさまにするかの出来事が、息子の発言によって  わたしに詰め寄るかのことが起こりました。

その発言とは「12月から、この教材をやっていたら△△大学への合格がとれていたかな?!」と。△△大学は、息子の志望校への足掛かりとしての受験校でした。なので合格は難しいだろう~とは予想をしていまし、たかだか受験に向かい合っている息子の軽いボヤキだったでしょうし、負け惜しみだったのかもしれません。けれども、わたしは、むき出しに反応してしまいました。心が揺れたのです。そして「今更何を言ってるの~?!」と、むきになり言い返しました。

でも、どこか微かな部分では、いつのまにか息子の受験経験が、わたしの経験と化し、わたしの願望と化(*)していたかも⁈   

そうです…間違いなく わたしこそが、どっぷり浸かっていたことに気づいたのでした。「はっ!!」という反応として。 受験は息子の心の経験です。そこに寄り添うことはあっても、わたしの願望と化した世界の中では、息子の心の経験(聖霊との)の邪魔することになるでしょう。

心の自由さと心の躍動さ、あふれだす情熱、そして大いなるモノへの信頼、その他……。

一方、わたしの願望と化した世界では、息子の合格のみに対する執着が張り付いているので、焦りとコントロール、それゆえの窮屈さ、そして恐れ続ける状態の世界で、それを主軸としている為に、どのような息子の姿勢や態度や、行動からでも、息子の不十分さをジャッジする経験になるに違いないのです。

以前にも記しましたが、実は息子の不十分さではなく、わたしの不十分さです。)。

わたしは、降参しあっさりと気づくことができました。

わたしは、すぐさま明け渡したい!という心の底からの決意をも確認できました。

そして、もう願望と化する自分をやめたい!ということも。

すぐさまこの祈りに心を投じました。捧げたのです。毎朝の祈りが、このような経験として、わたしを支えた一つかもしれませんね。(^^;;ところで、心を投じると、すぐさまメッセージは感覚を道具としてくるのです…心の安心と自由さ、溶けたかの五感の感覚は 至福に包まれます。 息子を前にして、わたしはわたしの偏った思い癖から自分を自由に解放できたわけです。つまり、ゆるせたのでしょう?!   (それは、ただただ喜びです。)喜びと共に「ああ、これでいいんだな~。息子がわたしに教えてくれた~、ありがとう~。」という具体的にこのような思いしか、感じられないわけです。 この心と共に、わたしに見える息子は、自由さと解放感の中で漂っていただけの神の子そのもの、そうわたしには見えてもくるのです。