大江健三郎著『洪水はわが魂に及び』を読んで | フォノン通信

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小説『洪水はわが魂に及び』を読了したいと何度も挑戦してきだが、そのたびに中断していた。先日、再度挑戦しやっと読了することができた。

 

この小説は、1973年に純文学書下ろし特別作品として、新潮社から出版された。

 

この小説について大江健三郎は次のようなコメントを残している。

 

【引用開始】

僕は60年代後半から、70年代初めにかけてこの小説を書いた。現実に深くからみとらわれている僕が、あらためてこの時代を想像力的に生き直す。それがすなわち小説を書くということなのであった。いまや「大洪水」が目前にせまっているという声は、一般的となっている。その時、想像力的に生きなおす、ということは現実的な意味があるであろう。

【引用終了】

 

★このコメントの中に大江健三郎が、この小説を書かざるを得なかった動機をうかがい知ることができる。

 

「大洪水」とは核戦争であり、大地震であるかもしれない。核時代の想像力が、大江文学のエンジンであり推進力なのだ。

 

★できる限りあらすじを書くのをやめようと思ったのだが、結局あらすじに触れることになった。以下にネタバレがあります。これからこの小説を読もうと思っている方は注意してください。

 

主人公は、大木勇魚(おおきいさな)。知的障害がある5歳の息子ジンと東京郊外の核避難所を改造した家に住んでいる。

 

ここで隠遁生活をしている。核避難所は、勇魚の瞑想の場所でもある。

 

勇魚は、この世でもっとも善きもの、すなわち鯨と樹木の代理人を自認している。

 

彼の瞑想とは、地上に遍在する樹木と、遠方の海上にある鯨たちと交感することだった。

 

知的障害児のジンは、特殊な能力を持っている。50種類あまりの鳥の声を識別することができるのである。たとえば、キジバトが鳴けば、ジンは「キジバト、ですよ」とかすかな声を発するのである。

 

重要な人物として喬木(たかき)という若者が登場するが、彼は「自由航海団」という若者のグループを組織している。

 

物語を推進していくのは、この「自由航海団」と勇魚の関わりである。

 

「自由航海団」には政治的なイデオロギーはない。自由航海団は、現実の社会からドロップアウトしてきた青年たちの集まりである。

 

今の体制に不満を抱いているので「反社会的な」行為を好んでいる。

 

政治的なイデオロギーはないが、どちらかというと無政府主義的な心情をもって行動する連中である。「自由航海団」を指揮するのは喬木(たかき)という青年である。

 

勇魚は、「自由航海団」とかかわることになり、喬木に請われて彼らの「言葉の専門家」となる。「自由航海団」は、来たるカタストロフ(大洪水)にそなえた集団訓練を行う。

 

ある時、傷を負った通称「ボオイ」という自由航海団の少年を核避難所で手当てしたことで、自由航海団の中の唯一の女性・伊奈子と息子のジンはこころを通わせるようになる。

 

ジンと伊奈子の存在は、この小説の希望であり「光」である。

 

勇魚は、隠遁生活を始めるまでは妻の父である保守系の大物政治家「怪(け)」の個人秘書をやっていた。この個人秘書の時に「怪」とともに犯した罪を「自由航海団」のメンバーたちに打ち明けたことで、彼らからの信用が得られ、勇魚は喬木(たかき)に請われて「言葉の専門家」になる。英語の指導の教材には「カラマーゾフの兄弟」の英語訳の一部を使った。

 

自由航海団の団員の総人数は明記されていないが、綽名で呼ばれる人物が8人出てくるから8人以上20名以下くらいであろうか。

 

勇魚の年齢は30代後半で喬木は20代だと思われる。ヒロイン的な存在の伊奈子は十代の少女である。

 

自由航海団の目的は、国に反抗することではなく、規則に縛られることなく文字通り海をスクーナー(エンジン付きのヨット)に乗って航海することである。

 

結果的に国に反抗するものとして警察から認識され、自由航海団のメンバーたちは機動隊と銃撃戦になるのである。

 

なぜ自由航海団が危険な集団と認知されたのか?それは、彼らが武器を持って訓練をしているところを自由航海団の重要なメンバーで写真家でもあった「縮む男」が撮影し、その写真を週刊誌に売ったことで、自由航海団が危険なテロ集団と認識されてしまったのである。

 

☆僕はなぜ自由航海団が警察・機動隊を敵にまわして、戦う必要があったのか疑問である。

 

☆重要なメンバーだった「縮む男」の密告があったからカタストロフが起こり、警察と銃撃戦となったのではあるが、小説のその展開がどうしても納得がいかないのである。

 

小説の最後のシーンを描きたいがために、この小説は不条理な展開にしなければならなったのであろうか?

 

最後はあのアメリカ映画「明日に向かって撃て」のラストシーンと同じなのである。

 

勇魚は、機動隊のガス弾と銃弾が降る中を核避難所の地下壕から外に飛び出すのである。

その場面を描写して物語は終わる。

 

★僕がこの小説を読み終わったあとに書いたメモをここに転載する。

 

自由航海団のメンバーは、なぜ命をかけてまで機動隊と戦わなければならないのか。

 

イデオロギーなき集団、信仰なき集団の無謀な反抗は何のためなのか。

 

国を捨て自由に航海をしていくのが目標ではなかったのか。

 

武装したテロ集団とみなされしまったことは自業自得ではあるが、死ななくてもいい人間が何人も死んでしまった。

 

大江健三郎がこの小説にこめた願いとは何だったのか。

 

はたして「樹の魂」と「鯨の魂」の代理人であった勇魚が、死ぬ必要があったのか。この小説が醸し出す不協和音がどうしても気になったのである。

 

救いは息子ジンと少女の伊奈子の存在である。

 

僕には勇魚が「樹の魂」と「鯨の魂」に祈ることと勇魚の「自由航海団」での行為とがどう結びつくのか分からなかった。

 

以上が読後の感想を書いたメモからの転載です。

 

◆僕の評価 ☆三つの佳作。傑作に近い佳作といえばいいのだろうか。

 百点満点でいうと80点の評価

 

*買ったまま読了していない大江健三郎の小説がまだ5冊も書棚にある。いつか読むだろうと思いつい買ってしまったのだ。

 

次は、『ピンチランナー調書』を読もうと思っている。