最近、よく感じることがある。映画を
観るのが、大変になっていないか?。自身だけ
の話ではない。作品のいわゆる「予習」的な
知識が必要になっていることが、やけに
多い気がしてならないのだ。映画を観るのに、
前もって知識を注入しておくことが
求められている。
そうしないと、映画が
わからなくなるということだ。本当に、
そうなのか? もし、そうだとしたら、
随分とやっかいな
時代になってきたと言わざるをえない。
「オッペンハイマー」を、IMAXシアター
で観た。公開初日だから、もう2ケ月前になる。
当然ながら、作品に関する
報道は減ったが、正直に言っておきたいこと
がある。
一度観ただけでは、わからないこと
が、多すぎるのだ。入り組んだ時制、
公聴会や聴聞会における人間関係などが複雑に
絡み合う。
その際、様々な登場人物の
来歴や関係性を、前もって「予習」して
おいたほうがいいという意見を見た。確かに、
そのほうが頭に入るのは間違いない。
とはいえ、当方には昔から、映画は1回
性の出会いとの認識がある。大方、先入観
や知識を入れず、まっさらな状態で作品と
対峙する。それは映画と個の衝突である。
頭で考えるのではなく、自身の未知なる
部分に刺激を受けたい。そこに、映画の
ダイナミズムがあると思っていた、今も思っている。
ところが、その姿勢がグラグラ
しだした。映画の側が以前にも増して「予習」を
強いてくる傾向が強まった。個人レベル
ではなく、少なからぬ人が、そのような
意識を抱きつつあるのではないか?
それを強いる作品ジャンルでは、邦画
アニメーション、洋画ではマーベルコミックスや
DCコミックスの作品、邦洋の
シリーズ物などがすぐに挙がる。
説明の必要は無いだろう。不特定多数の観客を視野に
入れる作品まで、その傾向が強くなっている。
登場人物たちの関係性はじめ、複雑に入り組んだ
話の展開が、わかりづらくなるから
「予習」は、前もってしておいてくれ。映画の
側が、そう言っている。その垣根を
越えていく作品が、大ヒットへの道を開く...。
「オッペンハイマー」に戻る。話の複雑さを
頭で探っていくのは、かなりきつかったが、
それがある段階から、さっと
消え去った。
別のところでも書いたが、映画を虚心に
観ていくと、ある局面がニョキニョキと
滲み出てきた。アメリカと言う国家への
強烈な批判の刃が、画面に突き刺さっていた。
主人公の伝記的な話を進めながら、●爆を
日本に落としたアメリカを激しく撃って
くる、煮えたぎるような反国家の意思である。
その矛先は、原爆投下に熱狂する米国民
にも向かう、IMAXで観ると、単純な
スペクタクル要素を越え、そのことが
ダイレクトに感じられてくる...。
映画に即して、映画を観る。このことが
今、混乱を極めている。当たり前のことが
今や当たり前ではない。キャラクターや
話の展開の妙について、うんちくを語る。
もちろん、それもありだ。映画の楽しみ方は
千差万別である。とはいえ、映画の全体は、
どうなっているのか? 面白いのか?
つまらないのか? そこが、藪の中に入っている。
そもそも、全体とは何か? いつもながら、
そこでは映画とは何かという問いが
浮かび上がってくる。
それらをすべて飲み込みつつ、映画の「予習」を
常態化していくような作品は、一部の、
否、多くの観客を遠ざけることに
つながる危惧をもつ。ここは問題ではないか?
「劇場版ブルーロック-EPISODE 凪」
の凪のセリフではないが、「めんどくさ~い」
となりかねない。
映画は多様な層の
観客にとって、広く開かれるべき方向性が
望ましいと思っている...。
備考:この内容は、
令和6-6-20
発行:キネマ旬報
「大高宏雄のROUND540
ファイト・シネクラブ」
より紹介しました。