
「ズボンで手、拭いちゃだめだよ」
登校する卓哉を送り出そうとハンカチを渡すと、
とたんにふくれっ面をされた。軽くしわの
寄った鼻のあたりが、最近ますますこの子の
父親に似てきた。小学4年にしては大人っぽい
表情を見ると、舞子はひそかにいらだってしまう。
忙しい平日の朝は特に...。
「あのハンカチは?」
「あ~あ、あれは、まだアイロンかけてないから、明日ね」
「アイロンなんていい、あれ持ってく」
「あのハンカチ」というのは、テレビ番組に
出てくる戦隊ヒーローのキャラクターがプリント
されたハンカチだ。言いだしたらきかない
性格をよく知っている舞子は、その原色づかいの
少しくたびれたハンカチを洗濯機の山から
引っ張り出してきた。しわの残るまま簡単に折って
渡してやると、卓哉は生意気な笑顔を見せた。

「じゃあな」
「行ってきます、でしょ!?」
卓哉が「行ってきます」と答え、
やっとアパートのドアが閉まる。

そのハンカチは舞子の手作りだった。
「手作り」とはいっても大したものではない。体操着
袋を作ってやった時にあまった布を捨てて
しまうのももったいないからと、裁ち落とした縁を
かがって大ぶりのハンカチもどきに
仕立てたのだ。
卓哉はこのハンカチを毎日学校へ持って
いきたがるものだから、いつの間にかプリントは色褪せ、
布は端の方から、ほつれてきていた。

自分が適当に作ったものを、それほど
気に入って使ってくれている。そんな卓哉のことを
考えても胸の中に温かい感情が湧いて
こなくなったのはいつからだろう? 汚れた食器を
あわただしくテーブルからシンクへ運びながら、
舞子は朝から胃に鈍い痛みが走るのを
感じていた...。

川沿いの細い道を自転車で、流していると、
風が昨日より暖かくなっているのを確かに感じる。
向こう岸の桜並木も今が見頃だ。
けれど、そんなっ景色も、舞子の心を浮き立たせることは
なかった。それは何も、これから仕事に行くから
というわけではない。
数年前から春が嫌いになった。正確に言えば、
卓哉が幼稚園に入った年からだ。夫が出て
いったきり帰らなかったのは、ちょうど桜が
咲き始めるころだった。そんな夫が勤めていた
印刷会社で、舞子はあの春からずっと
働いている。しかも、あちこちに家族の思い出が
残るこの街を出ることもなく...。

だいたいこの街は 昔から嫌いだった。
小さな工場が集まっていて、どこに行けば誰がいるか
だいたいわかってしまう小さな街。
下町情緒とか言うけれど、要するに人の暮らしが気になる
だけじゃないか。だからといって困って
いる者に手を差し伸べてくれるわけでもなく、
ただあれこれうわさするだけだ。

働くのだって、好きじゃない。舞子の
会社は、シルクスクリーンなど特殊印刷を売りに
している。記念品などとしてよく見かける、
車名の入ったボ-ルペンやグラス、トートバッグ。
ああいうものの印刷を手掛けているのだ。
夫が疾走したとき、当座の勤め先を探していた舞子に
当時の工場長が、「もしよかったらしばらく
手伝ってくれないか?」と言ってくれて、そのまま夫の
穴埋めのような形で働いている。
年数だけは 結構なベテランになったしまった。今まで辞めず
にきたのは、卓哉と2人で食べて
いくためというのが一番だが、そのほかに
「あいつよりきちんと仕事をこなしてやる」
という意地があったからだ...。

シルクスクリーンというと、版画か
何かと思うのだろうか?
「よくわかんないけど、アート
っぽくてカッコいいね」なんて言って
くれる人もいる。けれど、舞子の仕事は、そんなものでは
なかった。わかりやすく言うと、いろんなものを
印刷機にセットする作業を毎日繰り返している。
単調ではあるが、設定を間違えると
印刷機の製品が無駄になってしまうので、意外と神経を
すり減らす仕事だ。それに作業をしていると、
指がたちまち油やインクで汚れてしまって、後で
ゴシゴシこすっても、なかなか落ちない。

なんだかんだといいながら、本当は
ちゃんとわかっていた。周りの人やものに文句ばかり
つけながら、その中でじっと動こうとしない。
舞子が何より嫌いなのは、意地っぱりなくせに
煮え切らない自分自身だった...。
備考:この内容は、
2009-5-2
発行:泰文堂
編著:リンダブックス編集部
原案:水森野露
小説:田中夏代
「99のなみだ・風
ほほえむまでの時間」
より紹介しました。
