1971年のある日、TVドラマ
『刑事コロンボ」のプロデューサーたちは、
受話機からあふれる悲鳴にも似た
声を聞いた。
「撮影現場に来て下さい。誰も口を聞いてくれ
ないんです!」
「構想の●角」(第3話)を監督中の
スティーヴン・スピルバーグからの
電話だ。若干24歳で、監督に抜擢された
若者を、現場の古参スタッフは
バカにしていたのである...。
その6年後、ハワイで不安に
かられていた男がいた。自らの監督作
『スター・ウォーズ』('77)が、試写会で不評だった
ため、公開日を控えて潜伏中の
ジョージ・ルーカスだった。
当時、すでに
売れっ子監督になっていたスピルバーグは、
『未知との遭遇』('77)を撮り終え
たあと、ハワイでバカンスと、しゃれ
こんでおり、ルーカスと映画の話に花を
咲かせていた。
彼ら自身が気づいていたか
どうかはともかく、彼らはこの時、
アメリカの、あるいは、世界の映画産業を
一変させつつあった...。
これ以降の2人の活躍は、SFや、
ホラーといえばB級映画、ファンタジー
といえば子ども向け、冒険活劇など
時代遅れという当時の、映画界の常識を
覆してしまったのだ。
80年代以降、SF、ホラー、ファンタジー、
冒険活劇などは、ファミリー映画や、デート
ムービーの主流となり、
保守的な批評家
たちは、シリアスな作品の傍流化を嘆く
ようになった。
また、コワモノとしての
SFや、ホラーを作っていた映画人は、
自分たちの縄張りをメジャーに、
食い荒らされる
ようになった。
それは、まさに、
この2人が、起こした「革命」
の結果だ。
1980年代の初め頃、スピルバーグは、
「私は、アカデミー賞をとれない
だろう」と、言っていたという。
結局、彼は1993年に『シンドラーのリスト」、
1998年に『プライベート・ライアン』で
アカデミー賞監督賞を受賞した。
これは、この両作品が選考委員会好みの
シリアスなテーマだったということも
あるが、一方で、スピルバーグが好んで
監督・制作するようなSFや、ファンタジーを
キワモノとして排除しきれなく
なったという事情も無視出来ない。
なお、『スター・ウォーズ』シリーズ
のほかには、意外と成功作に恵まれて
いないルーカスだが、彼が1975年に
設立したインダストリアル・ライト
&マジック社(ILM)が、SFX技術
向上にはたした功績は、まさに彼らに
よる革命の一環といえよう...。
備考:この内容は、
2009-2-27
発行:宝島社
文:原田実
「別冊宝島
SFファンタジー
映画の世紀」
より紹介しました。