千一夜語り第五夜:i80486 | CLAYの日記

CLAYの日記

老後の為の忘備録

2002年5月5日
 昔のオートバイと同じように、インテルのCPUは型番を見ればその性能が判ったのですが、8086→80286→80386→80486と来て、次に80586と命名するつもりが、「番号の羅列は商標とは見なせない」という裁判所の判定により、次のCPUには”Pentium”という名前が付けられました。
特にパーソナルコンピュータが一般家庭に爆発的に普及した「Windows95」発売時以降は、CPUは「Pentium」に取って代わられていたので、「80486」なんて知らないと言う方もいらっしゃるでしょう。
 
 今回の「SETI」参加には「80486」CPUを使用しました。
では、「80486」が活躍した時代とは一体何時で、どんな時代だったのでしょう。
 
 インテルのHPによると、初代の「80486DX」が発売されたのは1989年となっています。周波数は16MHz。
但し、この手の部品の常で、出始めはベラボウに価格が高かったのと、米国で爆発的な売れ行きを見せた「MS-Windows3.0」の発売(1990年5月)前夜ということもあり、PC-DOSの世界では普及に拍車を掛けられなかったようです。
価格については、後年(1991年)歩留まりのネックとなっていた「数値演算コプロセッサ」を取り外して外付けとした「80486SX」が発売され、ローエンド商品に多用されていくことになります。
 
 …で、私が所有しているFMV466D3(CPUは80486DX2/66MHz)ですが、これは1994年12月発売の機種であり、この当時では既に450sに続く下から2番目のローエンドの機種でした。(最上位機種はPentium90MHz)
初代の466Dは1993年10月の発売となっており、この時点では最上位にありますね。
 
 ここに「ざべ」の1992年7月号があります。
特集は「これだけはしっておきたい AT互換機とDOS/Vの世界」です。
当時業界最先端を走っていた(?)本誌にこの企画ということは、これが当時の”旬”であったということでしょう。
触りの部分に「…486/50MHzで日本語も夢ではない。…」と書いてあります。
つまりこの時点では66MHz版はまだ無かったのか?ということで、広告をめくってみると、当時のPC/AT互換機の最上位機種は80486DX-50を搭載となっています。
 
 
 うーん、よしよし。まだ勝ってるぞ(笑)
蔵書が飛んでいて、次が1993年2月号になっていますが、この広告では(日本では)今は亡き「Gateway2000」が、日商岩井を代理店として広告を出しています。
 
 
 価格が(物凄く!)高めの設定(流石商社を通しているだけのことはある)ですね。
それはさて置き、広告から見ると80486DX2/66MHzは1992年の年末商戦に出されたものではないかと推測されますので、言わば「1992年の最高峰マシン」であると言えるでしょう。
但し、当時はメモリーが非常に高価であったのと、MS-Windows3.0は16MB以上メモリーを積んでも無意味ということもあり、この時期のマシンとしては「8MBあれば上等」でした。
 
 因みに1992年当時の私のマシンはNECの「PC9801DA」でした。
CPUは80386SX、RAMは9MB+640KB、HDDは外付け200MB、Windows3.0使用でした。(懐かしい…)
当時はPC9801も640*400ドット表示の壁を越えられず、非常に狭い画面でWindowsを使ってました。
ついでに書くと、会社ではPC9801NS/Rというノートパソコン(80486SX16MHz)でした。
また、当時発売の製品は、国産機は概ね80486SX25MHzがハイエンドで、RAM、HDD等、明らかにPC/AT互換機に見劣りがし、価格はあまり変わらないという状態でした。
DOS/Vの発売に伴い、日本のユーザーがこの不利な環境に気付き、いよいよPC9801に反旗を翻し、PC/AT互換機に大挙して押しかける前夜であったと言えます。
 
 実は私の手元にも1992年初版の「AT互換機ガイドブック」(ソフトバンク)があります。
当時日本橋にはあまりこの手のお店にお目に掛からなくて、時々の東京出張の折り、秋葉原でこれらを取り扱っていた「コムサテライト」「スパンキーコンピュータ」等に寄り、検討はしていました。
…が、結局コスト的には国産機とあまり変わらなかった(性能は高かったけど)のと、当時使用のマシンであまり不自由は感じなかった(最高峰を求めないのは当時も同じ)ので、結局PC/AT互換機は1995年末のWindows95発売を機に購入したDELL機(Pentium100MHz)までお預けになります。
 
 結局、「80486」とはなんだったのか?一言で言えば、現在主流のGUI環境を世にあまねく行き渡らせることになった起爆剤であったと思います。
勿論「Mac」は存在していましたが、アメリカでさえも極一部の限られた人々のものであり、ビジネスマシンとして普及していたPC/AT互換機上でGUI環境を走らせるということが、1980年代半ばからの目標とされていました。
数多あるGUIシステムで残った「Windows」を快適に走らせるには、「80386」では力不足であり、「80486」のパワーが必要だったのです。
 
 また、この後に発売された「Pentium」の価格が中々下がらなかったこともあり、「80486」はかなり寿命も長く(それだけに解り難いバリエーションになっていくが)、かなりの長期に渡って性能向上版が出され、使用されていくことになります。
1995年末の日本版「Windosw95」発売時点で、新規に「80486」機を購入された方も多かったと思います。
当時のローエンド機種として、年末商戦に80486DX2/66MHzがモニターセットで¥99,800で売っていました。
但し、「Windows95」は「Windows3.1」に比べて更にコンピュータ資源を必要とするOSであり、「80486」では役不足となり、最終的には3倍クロックの「80486DX4/100MHz」を出すも、バスクロックを2倍(33MHzから66MHz)に上げた、よりパワフルな「Pentium」にその座を譲っていくことになります。
 
 この時点で買った人は、一般的に家庭での使用を4年程度の寿命と考えると、1999年時点まで使っていても特に不思議ではないと思いますので、「80486」こそまさに1990年代を通して使われた非常にロングランのCPUであったと言えるでしょう。
今回丁度10年前の1992年時点での最高峰であった「80486DX2/66MHz」で「SETI」に臨むことにしました。
実験終了まで1年ありますので、どこまで頑張れるか楽しみです。