皆さま

 

先月は、祈願参りの依頼もあり、北部九州を巡礼しておりました。

 

結果的に稲荷系神社を巡ることになったわけですが、各所に古い信仰形態を今に残しているところもあり、非常に興味をそそられました。

 

今回は、その中でも各種の伝説に彩られている神社へ参拝に行ったときの記録を公開いたします。

 

 

鏡山神社(鏡山稲荷神社)

 

所在地:佐賀県唐津市鏡6052−20

主祭神:神功皇后(気長足姫 おきながたらしひめ)

 

 

 

鏡山神社は、第14代仲哀天皇の妃である神功皇后が三韓征伐の際に戦勝祈願を行ったことにより創建されたと伝えられています。

 

この由緒からも、古代からの信仰の対象であることがわかります。

鏡山神社の鎮座する鏡山は、笠の形をした山であり、古代において数百メートルの山を「神の山」として崇敬する神体山信仰(神奈備信仰)の典型的な例です。

 

この信仰は、山そのものを神聖視し、神が宿る場所として崇める古代の自然崇拝の一形態であり、鏡山神社もその影響を受けています。

その後、鏡山神社では御食津大神(保食神)が祀られるようになりました。保食神は食物を司る神であり、古来より豊穣や食物の神として信仰されています。

保食神(うけもちのかみ)御食津神(みけつかみ)などは、稲荷神社の主祭神とされ、衣・食・住を司ることから、農業・商工業の守り神として篤く信仰されています。

 

このように、鏡山神社の歴史は、古代の山岳信仰に基づく由緒から始まり、保食神を祀る稲荷信仰としての役割も担い、地域の重要な信仰の拠点となっています。

 

佐賀県神社庁のデータによれば、神功皇后が主祭神となっていたので、それに基づいて書きました。

 

が、由緒書きなどはなく、あいにく社務所も閉まっていて社伝について伺うこともできず、各種のデータを総動員しつつ、現場での肌感覚も踏まえて綴ります。

 

 

鏡山神社の拝殿

 

額には「鏡山稲荷神社」とあった

 

 

また、この地域にはいくつかの恋愛にまつわる伝説も伝えられています。少し、その辺にも触れておきましょう。

 

 

鏡山の伝説

 

鏡山には、松浦佐用姫(さよひめ)の悲恋伝説が伝わっています。この物語の舞台となったのは、朝鮮半島に派遣される将軍・大伴狭手彦(おおとものさてひこ)と佐用姫の恋物語です。

佐用姫は豪族の娘で、狭手彦と出会い、身の回りの世話をするうちに恋に落ちます。二人は結ばれますが、狭手彦は任那(朝鮮半島南部)へ出征しなければならず、二人は別れを余儀なくされます。

 

狭手彦は出航の日に銅鏡を渡し、「これを私と思って待っていてほしい」と佐用姫に告げます。姫は鏡山の頂上に登り、玄界灘を見下ろしながら、狭手彦が率いる軍船に対して袖につけていた領巾(ひれ)を振って見送ります。

 

この出来事から鏡山は「領巾振山(ひれふりやま)」と呼ばれるようになりました。

しかし、佐用姫は狭手彦を見送った後も別れがたく、彼の船影を追って鏡山から呼子の浦まで海岸を辿ります。

 

さらに、加部島の天童岳に登って狭手彦の名を呼び続けましたが、船は遠ざかるばかりで、その声は届きません。絶望した佐用姫は、悲しみのあまり七日七晩泣き続け、最後には石と化してしまいます。

 

この石は「望夫石」と呼ばれ、田島神社には、佐用姫が変じたとされる石を御神体とし、これを覆う形で社殿が建てられています。

この伝説は北部九州と大陸・半島との交流を示すものとされており、同様の悲恋伝説が向こうにも残っています。

 

また、『肥前国風土記』では佐用姫ではなく、弟日姫子(おとひひめこ)という女性が主人公で、狭手彦に似た蛇の化身の男に騙されて沼に引きずり込まれるという異なる物語も伝えられています。

 

 

玉鬘と白狐の伝説

 

「玉鬘(たまかずら)」と白狐の伝説は、平安時代の美しく才知あふれる女性、玉鬘にまつわる物語です。この物語は、『源氏物語』に登場する夕顔の娘である玉鬘とは異なる地域伝承のバリエーションであり、鏡山の神秘的な背景が舞台となっています。

玉鬘は平安時代の光源氏に愛された夕顔の娘で、彼女は乳母の一族と共に松浦の里で育ちました。彼女は美しさと才知を兼ね備え、その評判が広がるにつれて多くの求婚者が現れます。

 

その中でも、肥後の大夫監(たいふのげん)という権力者は力を背景に無理にでも玉鬘を手に入れようとしますが、玉鬘は彼の求婚を拒み、裏山の洞穴に身を隠して京へ上る機会を待っていました。

21歳の春、玉鬘は念願成就の祈願のため、鏡神社(鏡宮)へ向かう途中で怪我をして苦しんでいる白狐と出会います。

 

彼女はその白狐を哀れに思い、手当てをし、自らの領巾(ひれ)を与えて助けます。帰宅後、京へ上るための船の手配が不思議にも整いますが、依然として大夫監の追っ手を恐れていました。

その時、助けた白狐が再び現れ、「恩返しに私が身代わりになります」と玉鬘を励まし、彼女を守るために自らが玉鬘の姿に化けます。

 

こうして玉鬘たちは夜半、大夫監の目を逃れて無事に京へ向かうことができました。大夫監は、白狐が化身した玉鬘を追いかけることなく、その後を追わなかったと言います。

この後、玉鬘が身を隠していた洞穴には白狐が棲みつき、土地の人々は「玉鬘の狐」と呼び、神聖な狐として崇めるようになったというのです。この場所は鏡山西麓にある「玉鬘古墳」として知られています。

この物語には、日本の伝承に頻繁に登場する「白狐」の神聖な存在と、恩返しのテーマが織り込まれています。

 

白狐は、稲荷神社などで神使として崇められる存在であり、しばしば人々を助けたり、守ったりする力を持つ霊的存在として描かれます。

 

玉鬘が白狐を助けたことにより、白狐が命を懸けて恩返しをする姿は、日本の伝統的な美徳である「恩返し」の精神を象徴しています。

また、白狐が玉鬘の身代わりとなって彼女を守る展開は、人間と霊的存在との深い結びつきを表し、この伝承が地元の人々に長く語り継がれ、崇められる理由の一つと考えられます。

 

 

誓来と諏訪姫の伝説

 

浜玉町浜崎にある諏訪神社に伝わる伝説は、古代日本と百済との交流を背景にした悲恋の物語です。この伝説は、誓来(ちかん)、百済からの鷹使いと、大和王権に仕える女性である諏訪姫の恋物語に基づいています。

百済から誓来という鷹使いが、大和王権に鷹を献上するために渡来しました。朝廷はこの特別な鷹を受け取るために、浜崎(現在の浜玉町)まで、大矢田連(おおやたのむらじ)の娘である諏訪姫を遣わします。

 

諏訪姫は、誓来から鷹狩の技術を学ぶこととなり、2人は次第に恋愛関係となります。

しかし、誓来は百済に帰国することが決まり、2人は別れを余儀なくされます。誓来が帰国する前に行われた最後の鷹狩では、鷹がマムシに絞め殺されるという不吉な出来事が起こります。

 

この出来事に深い悲しみを感じた諏訪姫は、誓来との別れの痛みと、鷹が亡くなった悲しみに耐えきれず、ついに自ら命を絶ちます。

諏訪姫の死を悼んだ地元の人々は、彼女を諏訪神社に祀ることにしました。それ以来、諏訪姫はこの神社の守り神として敬われるようになり、特にマムシ除けのご利益があると信じられるようになりました。

 

この信仰に基づき、諏訪神社の砂を持ち帰ると、マムシを遠ざけるとされています。

諏訪姫の悲劇的な死と、鷹がマムシに殺されたエピソードは、この神社がマムシ除けのご利益を持つとされる理由となっています。

 

マムシは、毒を持つ蛇であり、古代から人々に恐れられていました。そのため、諏訪姫がマムシを象徴する不吉な出来事に深く関わったことから、彼女を祀る諏訪神社が、マムシ除けの神社として信仰されるようになったのです。

この伝説は、百済との古代の交流だけでなく、悲恋と守護のテーマを通じて、神聖な場所としての諏訪神社の意義を深めています。

 

地元の人々は、諏訪姫の霊が今でも彼らを守り、特にマムシから身を守る力を持っていると信じ、神社の砂をお守りとして使っています。

 

 

 

とまあ、色々な伝説が折り重なって語り継がれているわけですが、稲荷信仰との接点に絞って述べるなら、白狐伝説が関係していると思います。

 

稲荷祈願参りをしているわけですから、あとは現地で何をどう感じるかの問題です。

 

 

 

私たちの場合、神社に参拝するとき、奥宮あるいは奥の院に着目します。

 

社殿の煌びやかさとか建築物の大小など、見かけにはまったく反応しません。そこに宿る神霊の反応だけを見るからです。そこが強い霊地なのかどうかだけに関心があります。

 

本殿の向かって左脇に白玉神社参道が見える

 

 

そこで、本殿で初対面のご挨拶を済ませた後、脇道に見えた「白玉神社参道」に進みました。

 

 

すると、参道が二つに分岐していて、左が「荒熊大明神」、右が「白玉大明神」へ通じることが分かりました。

 

左手の「荒熊社」と示されている方へ進みました。

 

 

ほどなくして、荒熊稲荷大明神のお社にたどり着きました。巨岩の間にお社があります。

 

 

ここは、岩の間にお稲荷様が祀られていました。しかも、神仏習合のスタイルです。

 

ここで、願主の代理として祝詞奏上&読経(稲荷心経)をあげ、拝み倒しました。

 

祈願後、参道に戻り、そのまま進むと今度は白玉神社へ通じる道へ繋がりました。

 

 

 

 

急峻な階段を降りてお社へ近づきました。

 

 

 

 

 

ここも、巨岩にお稲荷様が祀られていました。

 

白玉稲荷社でも、祝詞奏上&読経の繍仏習合スタイルで拝み倒し。願主の願い事はしっかりとお伝えいたしました。

 

 

 

 

このように、巨岩をご神体として拝むのは磐座信仰になります。非常に古い時代からの祭祀を踏襲していることが分かりました。

 

 

ここで、稲荷信仰の拡大の歴史について、少し掘り下げておきます。


稲荷信仰の拡大は平安時代から始まり、宮城県の竹駒神社(810~824年に小野篁が勧請)や、岩手県の志和稲荷神社(1057年に源頼義、源義家が勧請)などが、初期の稲荷勧請の代表的な例です。

 

この時期から、伏見稲荷大社の神霊を全国に分祀することが行われ、稲荷信仰は広まっていきました。

江戸時代には稲荷信仰が全国に広がり、奉行所が伏見稲荷大社に対して正一位の勧請に関する照会を行う事例も出てきました。

 

1792年には、野狐の窟を見つけた者が「正一位豊浦稲荷大明神」を勧請したケースがあり、このような事例に対して伏見稲荷大社は、正当な稲荷信仰と怪異的な信仰の区別を強調しました。

正統な稲荷信仰では、稲荷大明神は狐霊ではなく、あくまでも狐は神の使い=眷属としての存在です。

 

しかし、稲荷信仰が広まるにつれ、民間では狐と稲荷大明神が同一視されるようになり、怪異的な信仰が混じることもありました。

 

このような混乱を避けるため、伏見稲荷大社では、勧請を行う際に「神璽授与」を慎重に行い、神霊を正しく祀ることを重視していました。

鏡山(稲荷)神社は、唐津市の鏡山に鎮座しており、その歴史は古く、特に商売繁盛や農業、漁業の守護神として広く信仰されてきました。

 

この地域における稲荷信仰は、地元の風土と強く結びついており、地元の信仰や習俗が融合しているお稲荷様だと言えるでしょう。

 

そういうわけで、唐津は歴史的にも古くから大陸や半島との交流のあった土地です。それに鏡山には弥生時代の遺跡もあります。

 

古代祭祀の名残がたくさんあって、自然の気場も非常に良い場所に立地しているのが鏡山神社です。

 

本殿で参拝されてから、荒熊社、白玉社へも足を伸ばしてみることをお勧めいたします。

 

とても古い祭祀と信仰のあり方を見せられたような気がして、体験的な理解も進みました。

 

実に、ここは自然との一体感を全身で感じられる場所です。

 

 

追記.なぜ神功皇后を祀る神社が稲荷神社になったのか、その辺の歴史的な経緯をご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸甚に存じます。

 

 

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