皆さま

 

久しぶりにリアル・キングダムの記事を投稿します。

 

映画のキングダムシリーズは、後の秦始皇になる嬴政と将軍たちの天下統一物語にフォーカスされていますが、私たちの視点は中華統一後の秦族の興亡と、その後の日本移住のプロセスを検討することを目的にしています。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

倭族と倭人

 

まず、倭人と呼ばれた人々について述べます。日本の歴史書は当てにならないので、中国側の文献を解説した本を読んで考察しました。中国の史書もかなり話を歪曲している部分もあるみたいですが、実際に書いてあるとおりの物的証拠が出てきたりもしているので、日本のそれよりははるかにマシだと思います。


ただ、漢文を読む暇などないので、肝心な部分だけ現代日本語訳になっている本を参照しています。

 

 

 

 

鳥越 憲三郎 2020 「 倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本」 (角川ソフィア文庫) 

 

 

大陸から日本への人の移動経路については、春秋時代の呉と越の興亡が日本への移動を促したと考えられます。

 

大陸における民族の移動により押し出される格好で逃げた部族もあれば、戦乱によって亡命したり、難民化した部族もいました。

中国では黄河流域に根を張った漢族の国が幅を利かせてきた歴史があって、その勢力が南下していった流れもあります。

 

また、長江流域には河姆渡文化という稲作+漁労民の居住地域がありました。河口付近に倭人の住む地域があったものと思われます。

 

河姆渡人の信仰

1.神が天下るときの乗り物として鳥を信仰し、鳥形飾りを建物の棟の上に飾った。
2.葬制として、死者の頭を東の方角に向けて葬った。
3.女性の墓に副葬品が多い。⇒母系制社会
4.東方海上の彼方に死後の安楽浄土があると信じた。
5.太陽に対する強烈な畏敬の念を持っていた。



また、倭人に関する習俗の記録を見ると

 

1.村の門……鳥居、しめ縄
2.高床式住居
3.顔や身体に刺青
4.断髪……頭頂部の髪だけを伸ばす。神聖な身体の部位。そこに神が宿ると考えた。

 

など共通した風習をもっている人々でした。

 

東方へ移動した人々は朝鮮半島経由、東シナ海を船で移動、また南西諸島経由で九州方面に到達したケースが多かったものと思われます。

 

他方で東南アジア方面へ押し出されていった倭人もいて、今のタイ、ラオス、ミャンマーなどへ移動していったグループもいました。

 

紀元前473年……越が呉を滅ぼす。一気に北上して、山東半島の南側に遷都する。
呉人は山東半島から朝鮮半島へ逃れ、そのまま滞留したか、あるいは日本列島へ流入。

 

紀元前306年……楚が越を滅ぼす。王は逃亡。越人四散する。逃げ道は東シナ海ルートか?このように中国では、幾度となく戦乱が繰り返され、小国が大国に飲み込まれていきました。

 


その度に逃亡した王族もいれば、難民化した民もいたものと考えられます。

 

ちなみに、越を滅ぼした楚は最終的に秦によって滅亡しました。しかし、秦はこの楚から立ち上がった反乱軍によって滅亡したわけです。

 

どうも平時に人々の移動が自然と活発になったと言うよりは、大陸で繰り返された動乱が強制的に人の移動を生み出したのではと考えざるを得ません。

 

ともあれ、倭人がかなり日本を含むアジアの広い範囲で移動していき、その文化の痕跡は今にも残っているものがあると言えます。倭人=日本人とは限らないことも確認できました。

 

倭人の文化・習俗

次に、倭人の文化や遺跡等について注目したことを列挙します。

1.盟神探湯(くかたち)……神明裁判。訴え事のある者の正邪を「ご神意」により判定する呪術的裁判。日本書紀には、訴え事のある者たちに釜に熱湯を沸かして手を入れさせ、火傷すれば有罪(嘘つき)、火傷なければ無罪(正しい)と判定したという記録があり。


他にも瓶の中に毒ヘビを入れておいて、咬まれなければ無罪、咬まれたら有罪と判定する方法もあった。

 

同じような裁判は現在のカンボジアにもあった。たとえば、ワニのいる堀や猛獣の檻に人を入れて襲われなければ無罪というもの。
 

タイや中国南部にも類似のやり方があり。訴訟にも決死の覚悟が求められた。
 

 

2.祭政二重主権……古代日本の統治形態 は、 第一 次主権者として祭事権をもつ姉( または 妹)と、第二次主権者として政事権・軍事権をもつ弟( または 兄)との組み合わせによって行われていた。男王一人が統治する漢族の統治システムとは異なる。祭祀は女王の独占的権限。祭祀を受けて男王が現実の政治や軍事行動を決定し実行した。すなわち、祭事権者 としての女王と、 政事権・軍事権者としての男王の「二人の王」によって 統治される国柄であった。しかも四世紀ごろまで、姉( または 妹)の女性の族長のもとに、弟( または 兄)が補佐する形態が、 文献として地方の国々にも 多くみられる。沖縄、南西諸島にも「おなり神」という信仰があった。インドのナガランド地方、インドネシアにも類似の兄妹信仰はある(現在は希薄化)。
 

 

3.倭人文化圏……倭人の分布は広域におよび、長江全流域を中心に、西はネパール東部、 南は東南アジア全域からインドネシア諸島嶼、北は中国の江蘇省・安徽省・山東省、 東は朝鮮半島中・南部を経て日本列島(西日本)に達した。彼らの移動の多くは、 漢族からの迫害によるものであった。それは漢族の住域が地理的に中央アジアの先進文化を受容しやすかったことから、黄河中流域を中心として高度な文化を開花させ、 その 結果、長江流域の倭族にくらべて政治的・文化的に大差をつけることになった。漢族の権力にもとづく領土拡張の犠牲となって、倭族たちはつぎつぎと僻地へ逃避せざるを得なくなったのである。その漢族の優位性は当然のこと自負心となり、長江流域に発祥した民族を蔑視し、「倭人」と呼ぶようになった。倭の古音は「wo」(戦国時代の発音)越の古音も「wo」(同左)

 

漢族は倭族を蔑視した理由……倭族の習慣や風習は漢族に奇異に映り、特に入れ墨や文身、断髪などの習俗が理解されなかった。倭族の服飾の違いも相違感を生み、漢族の寒冷・乾燥な地域の習慣とは異なる温暖・湿潤な地域の倭族の習慣に驚いた。断髪の習慣は、倭族が頭の最高の霊を守るために行ったものであり、この習慣は漢族には理解されなかった。このような習俗が「倭人」という卑称の背景にあった。

 

 

4.秦は漢族か?……微妙。中原の一番西の端にあって、漢族だけとは言えない地理的な位置に国があった。秦の西にはといったチベット系遊牧民がいて協力関係もあった。西域との交流もあったわけで多民族国家だったと言っても良い。

 

 

5.その他留意点……呉や越の時代。呉が越に滅ぼされたときに、山東半島から朝鮮半島に逃げて半島を南下し、日本列島に向かった人々がいたとする。どこへ散らばっていったかというと九州北部から山口県の辺りに流れ着いた可能性が大。

たとえば、山口県下関市に土井ヶ浜遺跡があります。弥生時代前期からの遺跡で、古くは紀元前5世紀からの遺跡群。紀元前5世紀に呉は滅んでいます。ならば、ここに一部がたどり着いたとしてもおかしくはありません。

 

さらに、埋葬された人骨が多数残っていて、全員西を向くように埋葬されていました。その向きから推測すると山東半島の方を向いています。呉からの逃亡民か?それとも越か?

 

「英雄」と呼ばれる人骨が埋められていました。鏃がいっぱい刺さって頭を潰されている男性の人骨。至近距離から射殺されています。南西諸島でとれる貝輪をしていることから族長レベルと推定されています。

 

部族の中で地位の高い人物が南西諸島の貝を用いた装飾品を身につけている例は北部九州などにも見られ、海の民との交易も行われてたものと思われます。

 

鵜を抱いて埋葬されている女性の人骨もあります。鳥は神の使い。これは祭祀担当の女性シャーマンか?ただし、このような情報もあるので断定はできません。ちなみに、フクロウ(羽)も呪術で使います。

 

ここまで調べてみて思うことは、日本には色んな部族や民族が混じり合っていて、ものすごく複雑です。単純に縄文人、弥生人などと一括りにはできません。

 

暫定的に以下のように分類します。

 

1.縄文人……旧石器時代に日本列島に移動してきた狩猟採集民の総称(部族による差異はある)。晩期には倭族の移動も始まる。


2.渡来系弥生人第1波……縄文時代晩期から日本列島に渡来してきた海の民(倭族)、秦族(物部)、出雲族を含む⇒縄文人と混血して、祭祀によりクニを治める。


3.渡来系弥生人第2波……弥生時代中期以降に渡来してきた政治的、軍事的色彩の強い部族。天孫族を含む⇒倭国大乱のきっかけ⇒ヤマト連合(邪馬台国)=出雲+物部連合を滅ぼし、ヤマト王権を樹立する。 

西日本が倭人文化圏というのは分かりますが、それだけではありません。混ざり方を整理しておかないと間違った判断に陥る気もします。

 

 

秦の時代の宗教

秦の時代の宗教は、こちらが把握していることから言わせてもらうならば

 

1.陰陽五行説……紀元前3世紀には初期の理論が確立されていた。

 

2.神仙思想……紀元前3世紀には確立されていた。

 

3.犠牲祭祀……神への捧げ物として、人や動物の犠牲祭祀を行っていた。(殷王朝の頃から行われていたことは、過去記事で触れています)

 

4.霊媒の存在……特に重要な祭祀は、祖先崇拝に関すること。祖先の霊を冥界から呼び出し「霊おろし」(口寄せ)を行う。天(神)を崇めること以上に先祖との繋がりが重んじられた。それを媒介するのが霊媒による祭祀。

 

秦の時代の宗教を考慮に入れると、出雲族の犠牲祭祀との関係が出てきます。

 

縄文人が犠牲祭祀をしていたとは考えにくいです。

 

次に、秦と倭人との接点についてみると、始皇帝が中華統一後に着手したのは百越の征服です。全くの異文化民族と遭遇したことは想像に難くないでしょう。


華南の倭人地域を征服していますが、なかなか服属しなかったようで日本に逃げた部族もいたはずです。

 

国境など気にしないのが倭人の特徴でした。自由往来。漁業と農業の民。

 

朝鮮半島の動向を全く考慮に入れていなかったので、その方面もまとめておく必要も出てきました。

 

倭人と朝鮮半島の関係と言えば南部の倭人居住地域です。任那、あるいは加羅・加耶地域に分布していた部族となります。魏志倭人伝には狗邪韓国(くやかんこく)と記されているところになります。朝鮮半島を巡る緊張と対立関係は日本にも及びました。

 

秦の崩壊

 

つぎに、秦の崩壊プロセスについて見ていきます。

 

秦王朝(紀元前221年-206年)が滅びた原因は複雑であり、複数の要因が絡み合っています。以下にいくつかの主要な要因を説明します。


1.中央集権政治と専制体制……秦王朝は中央集権的な政治体制を確立し、専制的な支配を行いました。これにより、地方の貴族や一般市民の反発を招くこととなりました。秦の法令や政策は厳格で非情なものが多く、人々の生活や権利に対する制約が強かったため、反感を買いました。


2. 過度な強制労働と徴兵……秦王朝は長城の建設や皇帝陵の造営など、大規模な公共事業を実施するために広範な労働力を必要としました。これにより、農民らが強制労働や徴兵に従事させられ、彼らの生活が困難となりました。これが反乱の一因となりました。


3. 財政的困難と経済の衰退……大規模な建設事業と軍事遠征により、秦王朝の財政は逼迫しました。高額な税金や徴兵による経済圧迫は、社会全体で経済的な不満を引き起こしました。また、商人や商業が重要視されなかったことも、経済の停滞を招いた要因の一つです。
 

4. 文化的不和と二世皇帝の即位……始皇帝の死後、その後継者である胡亥(二世皇帝)は若年で即位しました。彼の統治は無能で、宮廷内部や官僚層での権力闘争が激化しました。文化的な調和が乏しく、国内の不和を助長しました。

 


この結果、実際に王朝崩壊に繋がる反乱が勃発しています。

 

陳勝・呉広の乱……秦の統治に対する不満から、紀元前209年に陳勝と呉広が率いる農民軍が反乱を起こしました。彼らは秦の支配に抵抗し、自らを劉王(呉広)と王侯(陳勝)として擁立しました。この反乱は秦の弱体化を利用したものであり、秦王朝の滅亡に向けた過程に影響を与えました。

 

項羽・劉邦の戦い……秦王朝が滅びると、中国は分裂して戦国時代のような状態に陥りました。項羽と劉邦の間で戦われた楚漢戦争では、秦の滅亡後に楚や漢などの地域勢力が台頭し、項羽や劉邦が王朝を興して争った事例です。最終的に劉邦(後の漢高祖)が勝利し、西漢王朝を建国しました。これらの事例は、秦王朝の滅亡後、その他の王朝や勢力が中国の支配権を争い、一部では反旗を翻したことを示しています。

 

 

秦の統治の終焉は、中国の政治的な地平に大きな変革をもたらし、戦国時代から秦代への過渡的な期間を形成しました。

 

結局、劉邦がこの戦いの最終勝利者になって、漢を建国し、中華統一を成し遂げました。

 

秦の崩壊に際しては、一度は滅びた戦国時代の6つの国も復活しています。

 

しかし、これらの反乱が起こったところは、元のがあった地域です。倭人地帯を含んでいた国です。

 

秦始皇帝は統一中国のために多くの公共事業や建築プロジェクトを行いましたが、その一環として楚の地でも破壊的な行動を取りました。彼は楚の首都・彭城(現在の江蘇省徐州市)を攻略し、楚王宮を破壊しました。

 

また、楚の名門貴族の墓を掘り返し、財宝を押収するなどして楚の歴史的遺産を破壊しました。

 

こんなことばかりやっていたら、恨みを買うのも当然でしょう。

 

でも、倭人の存在には気づいたわけで、その交易ネットワークに目をつけていたことは間違いありません。中華の南部を征服したのも利益追求のためです。

 

このころ、徐福の船団が東の方へ出向いていましたし、他のグループも九州(筑紫)に到達していました。

 

 

まとめ:秦族の視点から見た古代日本

 

 

2世紀後半~3世紀中頃までの部族の関係をまとめておきます。

 

1.出雲…出雲族、秦族(徐福)の拠点。初期ヤマト連合の中心。銅鐸祭祀で勢力を拡大した。姫巫女による祭祀を重んじた。


2.筑紫…交易の中心地。経済的な中心に発展していった。出雲族とは異なる物部=秦族の拠点があった。


3.ヤマト…古代豪族が集まっていき、政治の中心地になった。この3つが鍵となる地域。物部+出雲のヤマト連合が勢力を伸ばしていた時期もあったが、のちに天孫族がこれを打ち破ってヤマト王権を確立した。

 

 

秦氏は、もともと滅亡した秦からの渡来人の家系と私たちは考えていますが、そこに触れている言説はほとんど見られません。
 

秦族でも、秦の王族の歴史は大体把握しています。王族やその側近の一部は秦滅亡の時期に日本に移動しています。

 

他方で、中国に留まった王族もいました。中国に残留した一族は追っ手に追われて過酷な運命に晒されたと言います。

 

大規模な渡来はなかったにしても、大陸の技術や文化を携えて日本へ移住してきていました。

 

既にそこに居住していた部族を攻撃して奪取するよりも、協調関係や提携、懐柔といった手法で取り込んでいき、より大きな勢力としてまとまっていくようになりました。


そこにはすでに、海人族=倭人が日本に拠点を作っていたのですが、彼らの活動範囲は広域に及んでいて船を巧みに操って移動し、各地で交易をしていた部族たちですから、まず海人族との関係を構築しようと試みたのです。
 

(不定期に続く)

 

巫師麗月チャンネル

 

 

関連記事

 

 

 

 

お問い合わせ等はこちらへ

 

 

よろしければ下のバナークリックお願いいたします

 

巫師 麗月のブログ - にほんブログ村

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
にほんブログ村