皆さま

 

次に、物部氏による東征と、ヤマト王国の姫巫女(ヒミコ)に焦点を当てながらお話しいたします。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

第一次物部東征とは、2世紀後半に起こった大規模な軍事行動であり、徐福(ニギハヤヒ)の子孫である物部一族がヤマトを目指して行った東征です。この遠征は、後に「神武東征」として神話化される基盤となったもので、ヤマトの政治的・宗教的構造に深い影響を与えました。


1. 背景と発端

西暦165年ごろ、物部王国のヒコナギサタケ王の王子イツセがヤマトへの遷都を計画し、有明海から出発しました。物部一族は、ヤマト王国が出雲王国との戦争で手薄になっている隙を突きました。当時、ヤマトの大彦(長髄彦)が大軍を率いて出雲と戦っていたため、ヤマトは防備が手薄になっていました。


2. 紀ノ川での戦いとイツセの死

物部軍は瀬戸内海の内航路を避け、四国沖を経由して紀州(現在の和歌山)を目指しました。紀ノ川の河口近くに上陸を試みましたが、ヤマト軍のリーダー大彦が指揮する軍勢との直接対決を避けるため、名草山に登りました。ここで、出雲王国側の名草村の戸畔(トベ)という女性首長が奇襲を仕掛け、イツセは戦死しました。イツセの死後、弟のウマシマジが物部軍の指導者となり、紀ノ川を離れ、熊野へ向かうことを決意しました。


3. 熊野への移動と定着

ウマシマジ軍は熊野へ海路を取り、熊野の地で八咫烏(やたがらす)に迎えられました。この八咫烏は太田タネヒコとされ、物部軍をヤマトへ導きました。ウマシマジ軍の上陸後、熊野には熊野本宮大社熊野速玉神社が建立され、主祭神として素戔嗚尊(すさのおのみこと)と速玉大神が祀られました。これらの神々は、物部一族の祖先である徐福を象徴しています。熊野地方に定着した物部一族は、徐福の子孫たちの史実を背景に、徐福が熊野へ上陸したという神話を作りました。


4. 大彦の撤退と物部軍の進軍

大彦(長髄彦)は物部軍の勢力に対し、自らの劣勢を悟り、ヤマトから撤退し伊賀に新しい王国を築こうとしました。ヤマト王国においては、出雲や物部の争いにより統一を維持する力が失われました。物部軍は太田タネヒコの導きに従い、三輪山の南西の鳥見山に登りました。この地は出雲族にとっての聖地であり、太陽神信仰の遥拝地でした。物部軍の進軍によって、ヤマト王国の秩序が崩壊し、出雲族の一部は逃亡しました。


5. ヤマトでの統治とクニクル大王の登場

ヤマト王国では、フトニ大王が吉備へ去った後、人口減少により磯城王朝は衰退していました。その後、ヤマトで新たに大王になったのはクニクル(孝元天皇)でした。クニクル大王は物部勢力と妥協し、物部氏の娘ウツシコメを妃として迎え入れ、ヤマトの争乱を収束させようとしました。


6. 評価と戦争の結末

第一次物部東征は、ヤマトを征服するには至らず、一時的な撤退を余儀なくされました。当時の社会において、祭祀の方法が異なる出雲と物部の間で、宗教的対立が深まり、物部軍は支持を得られずに引き上げることとなりました。この戦争により、ヤマト王国は一時的に混乱しましたが、その後、物部とヤマトの政治的妥協により一時的な平穏が保たれました。


7. 宗教と政治の関係

物部氏は、宗教的・政治的に出雲族と異なる祭祀を行っていました。当時の社会では、祭祀と政治が密接に結びついており、託宣に基づく統治が行われていました。物部軍の祭祀方法が出雲と異なっていたため、支持を得ることができず、第一次物部東征は失敗に終わりましたが、その後、再び東征が行われることとなりました。
 

第一次物部東征は、物部一族のヤマト進出の重要な試みであり、後の神武東征の基盤となる歴史的な出来事でした。この東征の失敗を受けて、物部一族は再びヤマトを目指すこととなり、その後の歴史に重要な影響を与えました。

 

 

当時の物部、出雲、ヤマトの関係は出雲が本家でヤマトは分家、微妙な関係ではありましたが、ヤマトには出雲族も多く住んでいました。

 

物部は、元はといえば徐福を始祖とする集団で出雲とも同族でしたが、渡来から数百年の時を経て、独立した勢力を北部九州に持ち、やがて肥沃な土地であるヤマトへの領土的野心を持つようになり、遷都を目的として遠征を行ったのです。

 

ヤマトの姫巫女と三輪山祭祀

ヤマトの姫巫女(ヒミコ)は、物部一族がヤマトを侵攻し、出雲族との対立を通じて誕生した宗教的・政治的指導者であり、ヤマト王国初期の信仰と権力の中心的存在です。

 

この時代、ヤマトは祭祀を中心とした政治体制を持ち、姫巫女が大きな役割を果たしました。これは、特定の個人を示すものではなく、女性のシャーマンをさす職名のことでした。よって、何人もの姫巫女がいました。

 

  • 出雲……銅鐸をシンボルとするサイノカミ信仰で、太陽神(日神)を祀っていました。
  • 物部……鏡をシンボルとする道教神崇拝を行い、鏡をかけて祈る祭をヤマトに広めました。

 

物部氏は出雲の銅鐸を破壊し、鏡を使った道教的な祭祀を強制しましたが、ヤマトの民衆には支持されませんでした。出雲族は物部氏の武力に従わず、税を納めることも拒否しました。
 

2. ヤマトの統治と太田タネヒコ

物部一族の八咫烏(やたがらす)=太田タネヒコは、物部勢の武力を利用して出雲勢力を弱体化し、自らヤマトの大王になることを画策しました。彼は三輪山の祭主となり、三輪山の西にある太田家の領地で祭を行うようにしました。

  • 三輪山祭祀……春と秋の大祭で、三輪山にこもる太陽の女神を祀る祭が行われました。
  • 姫巫女……祭の中心であり、大王やヤマト中の豪族が参加しました。


3. モモソ姫とヤマトの姫巫女

太田家の娘であるモモソ姫が姫巫女に選ばれ、魏志倭人伝では「ヒミコ(卑弥呼)」として記録されました。

 

しかし、西暦239年に魏に使いを送り、鏡を受け取った「ヤマト国」のヒミコとは別の存在であり、宇佐神宮の姫巫女と考えられます。ヤマトの姫巫女は纏向に住んで祭祀を行っていました。

  • 纏向遺跡……太田家の領地であり、ヤマトの姫巫女の祭祀が行われた場所。
  • 箸墓古墳……モモソ姫の墓とされ、ヤマトの姫巫女の功績を讃えるものでした。


4. 政治と宗教の関係

ヤマト王朝では、王・巫女制度が採用されており、政務を担当する男王よりも、三輪山祭祀を司る姫巫女の方が民衆の尊敬を集めていました。政治の決定には祭祀の「吉凶」の神占結果が必要であり、祭祀が政治よりも優先されていました。

  • 二元的統治……政治のミカド(男王)と神のミカド(姫巫女)が共存し、両者の役割が国の統治に不可欠でした。
  • 祭祀の重要性……祭祀が政務よりも優先され、祭殿が政務の建物よりも立派に作られました。

5. 出雲族の広がりと物部勢の退却

物部勢は武力によってヤマトの出雲族を攻撃しましたが、民衆は武力よりもモモソ姫の祭祀力に尊敬を寄せました。モモソ姫の人気を利用して、太田タネヒコは物部勢をヤマトから追い出しました。彼は大王に匹敵する力を得て、死後は桜井茶臼山古墳に葬られました。

  • 開化天皇(第9代)……タネヒコが物部勢を追い出した時期の大王。
  • 崇神天皇(第10代)……物部の王とされるが、ヤマトには来ていないとされています。

出雲族は2世紀末までに東海、関東、信濃、中国、四国へ広がり、祭の時には土器に供え物を入れてヤマトへ集まりました。纏向遺跡では遠方からの土器が多く見つかり、出雲族のネットワークが反映されています。

上記は2世紀末から3世紀初頭にかけてのヤマト王国の様子を示しています。ヤマトは出雲王国の分家として、出雲族が多く住んでいたため、実質的には出雲王国の一部でした。

このように、姫巫女はヤマト王国において中心的な存在であり、三輪山の祭祀を通じて民衆の支持を集めていました。ヤマト王国は、政治と宗教が密接に結びついており、両者が国の統治において重要な役割を果たしていたのです。

 
(つづく)
 
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