皆さま

 

古代日本の出雲王家では、代々口伝によって「正史」を伝えてきたと言われています。この伝統は出雲王家だけでなく、他の有力な古代家系でも見られ、各家系の口伝を比較することで、共通点や相違点を明らかにできるとされています。

 

ただ、口承には記憶の錯誤やゆがみも生じ、本来の情報源とは異なった情報も加味されたり、意図的に虚偽のワードに置き換えられていたり、「暗号解読」に多大な労力を必要とします。

 

今回は、いわゆる出雲口伝と呼ばれているものについて、なるべく本筋が見えやすくなるように要約し、解説もつけながらお示しいたします。これと合わせて、出雲と秦氏との関係についても考察していきます。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

なお、参考文献として選んだのは、以下の2冊です。詳しくはこれらの文献を直接ご覧下さい。

斎木雲州『出雲と蘇我王国―大社と向家文書』(2012年、大元出版)


富士林雅樹『出雲王国と天皇政権』(2019年、大元出版)

 

 

 
 

 

 

 

 

 

出雲族の起源


出雲族の語り部によれば、ドラヴィダ語族が紀元前2000年頃に日本に渡来し、出雲を中心に繁栄しました。この過程で紀元前660年頃に出雲王国が成立しました。

 

ドラヴィダ語族はインダス文明の担い手であり、インダス文明崩壊後に北上して出雲に至ったとされます。この移動経路は、ゴビ砂漠⇒バイカル湖⇒樺太⇒北海道・東北⇒出雲というものです。

出雲王国は母系制社会で、共助の精神を重んじる平等性の強い文化を持っていました。この統治スタイルは『古事記』に描かれる大国主の国づくりに近いものです。大国主は第8代出雲王、八千矛(ヤチホコ)のことを指し、出雲王は17代にわたって続いたとされています。

 

ちなみに、出雲王国の王の職名はオオナモチ、副王のそれはコトシロヌシと呼ばれていました。

日本最古の王国である出雲王国は、6~8代目の王の時代に全盛期を迎えました。その勢力圏は今の新潟県から福岡県にかけての日本海側に広がり、戦争をほとんど行わず、繋がりを重視するシステムで平和を保っていました。

福岡県の宗像大社には宗像三女神が祀られています。彼女たちは6代目出雲王の息子が興した宗像家の娘であり、8代出雲王と結婚するなど、出雲王家と深い繋がりを持っていました。

 

湍津姫(タギツヒメ)は8代出雲王との間に高照姫をもうけ、彼女の孫が初期ヤマト王国を開いたとされます。これが神武天皇のモデルとされています。

多くの歴史学者によれば、神武天皇は架空の人物とされていますが、そのモデルとなった人物は実在し、「海村雲(アマノムラクモ)」と呼ばれていました。彼の父「香語山(カゴヤマ)」を祀ったのが天香具山(アメノカグヤマ)です。

 

海(アマ)と天(アメ)は古代日本の海人族の世界観では区別がなく、水平線で一体化したイメージがあるとされています。

歴史学者は2代から9代の天皇を実在しない「欠史八代」としていますが、出雲族の口伝ではこれらの天皇(大王)は実在し、記紀に記されている名前や人物相関は正確だとされています。長寿の天皇が多いという批判に対して、出雲族は年齢を春分と秋分の2回で数えていたため、年齢が実際の2倍になると説明されています。

秦の方士、徐福は不老不死の妙薬を探すために日本に渡来し、島根県大田市五十猛に上陸しました。そこでヒコホアカリと名乗りヤマト王国を開きました。一度秦に帰国した後、再び日本に戻り、今度は佐賀県吉野ヶ里に上陸し、ニギハヤヒと名乗って物部王国を興しました。

 

以上が概略です。

 

徐福に関する解説

 

ここで、徐福について解説を加えます。

 

秦(しん)は紀元前221年、中国史上初めて全国を統一しました。この偉業を成し遂げた秦王・嬴政(えいせい)は、自らを歴史上初の「皇帝」と名乗り、「始皇帝」としました。

 

徐福の伝説はこの始皇帝の時代に始まります。

『史記』によると、始皇帝は絶大な権力を手に入れたものの、唯一手に入らない「永遠の命」を求め、東方に不老不死の薬があると信じました。

 

そこで、方士徐福(じょふく)は、「東方に蓬莱(ほうらい)という仙人が住む三神山があり、そこで不老不死の霊薬を得られる」と始皇帝に進言し、始皇帝は徐福に3,000人の童男童女(若い男女)や技術者を従えて東方に船出させました。

しかし、徐福が目指した三神山には到達せず、代わりに「広い平野と湿地(平原広沢)」に到着し、その地で王となり、秦には戻らなかったと言われています。

 

別の記述では、徐福は一度目の航海で成果がなく、鯨に阻まれたと報告したため、再度の船出が許可されました。大船団と共に再度の航海を行い、ついにどこかの島に到達したと言われています。

方士(ほうし)とは、紀元前3世紀から西暦5世紀にかけての中国において、瞑想、占い、気功、錬丹術、静坐などの方術によって不老長寿を求めた者のことです。

 

彼らは呪術に秀で、鬼神に通じ、死生の解脱を目指し、祭祀、祈祷、卜占、呪術、占星術、不老長生術、煉丹術、医術などの神仙方術を行いました。秦や漢の時代には政治権力にも接近し、科学技術者や医師としての役割も果たしました。

 

徐福もその一人でした。

1982年に行われた中国の地名標準化調査では、江蘇省カン楡県の金山郷徐阜村(かつての「徐福村」)が、徐福の故郷と認定されました。このことから、徐福の実在はほぼ確実とされています。

 

しかし、日本への渡来については研究者の間で意見が分かれています。



出雲族の伝承による徐福の日本渡来
 

出雲族の伝承では、徐福は2回日本に渡来し、日本の王となることを目指しました。彼の渡来は大規模で、日本の人口構成や文化に決定的な影響を与えたとされています。

紀元前218年の初回渡来のとき、徐福は大船団で日本へ向かい、石見に上陸しました。

 

ここで火明(ホアカリ)と名乗り、8代出雲王の娘と結婚し、長男の五十猛(イソタケ)をもうけました。しかし、徐福の部下による出雲王(オオナモチ)と副王(コトシロヌシ)の殺害事件が発生し、五十猛は出雲を去り、丹波(現在の丹後)に移住しました。

 

五十猛は香語山(カゴヤマ)と改名し、その後の出雲族の指導者となりました。

徐福は秦に戻り、大鯨のせいで不老不死の薬を得られなかったと始皇帝に報告し、再度の航海の許可を得ました。

 

紀元前210年、再度の渡来では九州を目指し、有明海を経て佐賀県に上陸しました。ここで徐福は饒速日(ニギハヤヒ)と名乗り、物部(モノノベ)氏として強力な勢力を形成しました。

徐福は宗像三姉妹の市杵島姫(イチキシマヒメ)を妻に迎え、その娘の穂屋姫(ホヤヒメ)は丹後の香語山(カゴヤマ)と結婚しました。香語山と穂屋姫の間に生まれた海村雲(アマノムラクモ)は、一族を率いて丹波からヤマトへ移住し、初代大王となりました。これが神武天皇のモデルとされています。

このように、徐福伝説は、始皇帝の命を受けて不老不死の薬を求めた方士が、やがて日本に到達し、新たな文化や政治体制を形成するに至ったという壮大な物語です。出雲族の伝承は、徐福の渡来が日本の歴史に重大な影響を与えたと強調しており、その実在性と歴史的影響については今後の研究が期待されます。

 

 

出雲王国の宗教と霊性

 

出雲口伝によると、出雲王国の信仰の核心は「サイノカミ信仰」にあります。この信仰体系は、縁結びや子宝、道の守護、龍神、山岳崇拝、葬送儀礼など、多様な側面を持っていました。

1. サイノカミ信仰


サイノカミ(幸の神)は、子孫繁栄をもたらす神であり、縁結びと子宝の神としても崇拝されました。この信仰は、サイノカミが結婚や出産を通じて繁栄をもたらすと信じられていました。

サイノカミは、三柱の家族神として構成されています。

父神:クナトノ大神(久那斗神)
母神:サイヒメノ命(サイ姫命)
子神:サルタヒコノ大神(猿田彦大神)

 

この三柱の神の由来から、特に「3」の数を聖数として尊重しました。

2. 家族神とその役割
 

父神であるクナトノ大神は、イザナギ・イザナミ神話の原型とされています。彼は、全体の秩序や守護の役割を担い、家族の基盤を築きました。

サイヒメノ命は、「チマタ」(村の境界)の守護者とされ、「ヤチマタヒメ(八方の道の姫)」とも呼ばれました。彼女は、八方に広がる道の中心にいる母神として、村の子供たちや家庭の守護を担いました。

サルタヒコノ大神は、村の境界で賊や悪霊の侵入を防ぐ守護神として、「道の神」「岐の神」として崇められました。

3. 龍神信仰
 

龍神信仰の原点は、ワニとコブラへの畏怖の念にありました。出雲では、斎の木に藁で作った龍神を巻き付けて拝む「ワラ蛇」信仰が発展しました。

 

後に、セグロウミヘビをトグロの形に整えて「龍蛇神」とし、これを崇拝しました。出雲の重要な神社では、六角形の「竜鱗紋」が神紋として使用されましたが、これは亀甲紋とは異なります。

4. 山岳信仰


出雲では、蛇のトグロに似た円錐状の山を神奈備(かむなび)と呼び、信仰の対象としました。例えば、伯耆大山は「火神岳」または「大神山」として崇められました。また、丸い形の山は女神の象徴とされ、ヤマトの三輪山も同様に崇拝されました。

5. 葬送儀礼


出雲の葬送儀礼では、王家の当主が亡くなると風葬にされました。風葬の際、遺体はヒノキの大木の茂みに隠され、高い柵(ヒモロギ)で囲まれていました。ヒノキには先祖の霊が宿ると信じられ、崇敬の対象とされました。

ヒモロギの期間が終わると、遺体は3年後にカゴから出され洗骨され、イワクラ(大岩)の脇に埋葬されました。この埋葬方法は、死者が再び子宮に宿って生まれ変わることを象徴し、「再生」への願いを込めたものでした。

このように、出雲の信仰体系は、繁栄と守護、自然崇拝、祖先崇拝など、多面的な要素から成り立っていました。これらの信仰は、出雲王国の社会的、文化的な基盤を形成し、その霊性や生活に深く根付いていたと言えます。

 

 

この伝承を、私たちの立場から捉えるならば、日本海側に広く分布していた出雲系部族は、海人族の1つであり、縄文時代晩期には日本列島に拠点を作っていたものと考えられます。

 

そこに、秦から徐福が出雲に渡来してきたことで、大陸からの知識や技術が伝えられ、その後出雲系秦氏になっていったものと考えます。

 

一方で、徐福は再度渡来を果たし、今の佐賀県のあたりに秦族の拠点を作り、物部氏の祖となったと伝えられています。

 

除一族も、広い意味では秦族の一派であり、その後の秦氏のグループの一つとなります。なぜなら、始皇帝の家系と徐福のそれは元々同族だったからです。始皇帝の姓は嬴(えい)ですが、徐福の家系も同じでした。血縁集団としては同じなのです。

 

(つづく)

 

 

巫師麗月チャンネル

 

 

 

関連記事

 

 

お問い合わせ等はこちらへ

 

 

よろしければ下のバナークリックお願いいたします

 

巫師 麗月のブログ - にほんブログ村

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
にほんブログ村