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今回は、出雲口伝に基づいて、倭国大乱とヤマト王国の形成について解説します。この歴史の背景には、中国の徐福の日本渡来とその影響、物部氏の興隆、出雲とヤマトの覇権争いなどが複雑に絡み合っています。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

徐福の渡来とヤマト王国の誕生


秦の徐福(じょふく)は紀元前3世紀に出雲へ渡来し、その子孫はヤマト王国の成立に大きく関与しました。初代大王とされる海村雲(アマノムラクモ)が誕生し、この王統がヤマト王国の基盤を築きました。

徐福はまた、佐賀県の吉野ヶ里へ再渡来し、物部王国を築きました。徐福は吉野ヶ里で生涯を閉じました。彼の集団が形成した物部王国は、物部氏すなわち「秦」(はた)と呼ばれるようになりました。徐福の子孫や秦族が移動し、近畿地方に新たな秦王国を作り出しました。

 

 

この図のように、ことの発端は秦から徐福の集団が出雲に渡来し、その子孫が近畿(ヤマト)へ移動したこと。もう一つは、徐福が2回目の渡来のときに、九州の佐賀県に上陸し、その子孫が物部氏になったこと。いずれも徐福が関係しているという構図があります。



徐福亡き後の時代と物部氏の台頭
 

徐福の死後、物部氏は力を蓄え、ヤマト(近畿)への進出を狙うようになりました。物部のヤマト進出(物部東征)は、2度にわたって行われ、これが「神武東征」のモデルとされています。

『魏志倭人伝』や『後漢書』には、倭国大乱の記述があり、2世紀にわたって男王が70~80年続いた後、日本で戦乱が頻発し、卑弥呼(ヒミコ)が女王として戦乱を収めたとされています。この戦乱期が「倭国大乱」と呼ばれる出来事であり、ヤマトを巡る出雲、ヤマト、物部の三大勢力の覇権争いが背景にありました。



王朝の交替と三勢力の争い
 

ヤマト王国の初代大王海村雲から2代目大王ヌナカワ(綏靖天皇)にかけての海(アマ)王朝は約70~80年間続きました。その後、3代目大王タマテミ(安寧天皇)の時代には出雲王家の血統が強くなり、ヤマトは磯城(シキ)王朝に移行しました。磯城王朝は出雲文化が中心となり、特に三輪山の太陽信仰が定着しました。

ヤマト王家は、出雲王家から見れば「分家」でしたが、政権基盤は弱く、地方豪族に過ぎませんでした。そのため、内部紛争が激化し、ヤマト内での覇権争いが始まりました。



倭国大乱の概要
 

倭国大乱は大きく3つの争いに分かれます。

①ヤマト内の覇権争い……ヤマト内での権力争いが激化し、磯城王朝が弱体化しました。これにより、ヤマトは混迷の時代を迎えました。

②第一次出雲戦争……7代大王フトニ(孝霊天皇)が出雲を攻撃し、出雲王国の領土だった地に吉備王国を作りました。この結果、出雲の勢力は弱体化しました。

③第一次物部東征……物部氏がヤマトへ進出する足掛かりを築きました。これにより、出雲とヤマトの勢力が分断され、物部氏がヤマトへの侵攻を開始しました。

また、ヒボコ(天日槍)が朝鮮から渡来し、小集団を形成して播磨を攻略しました。これにより、出雲とヤマトは分断されました。

 

ヤマト内部の混乱と物部氏の侵攻の情報を得たフトニ大王は、ヤマトを脱出し、播磨を奪取、その後出雲を攻撃しました。この結果、分家のヤマトが本家の出雲に宣戦布告する形となり、また他方で物部氏との争いが激化しました。

このように、出雲文書が描く倭国大乱とは、徐福の渡来を遠因とする出雲、ヤマト、物部の勢力争いを背景にした大規模な戦乱でした。これにより、ヤマト王国の形成と王朝の交替が進行し、秦族の影響が日本各地に及びました。

 

倭国大乱の中でも、第一次出雲戦争は、2世紀中頃の日本列島において、出雲王国とその同盟国ヤマト王国、そしてヒボコの子孫との間で展開された大規模な戦乱です。この戦いは、地域間の覇権争いや領土の再編を促進し、出雲王国の歴史に深い影響を与えました。

1. 戦争の発端
 

西暦150年ごろ、朝鮮から渡来したヒボコの子孫が、出雲王国の領土である播磨(はりま)を奪取しました。出雲王国は、同盟国ヤマト王国のフトニ大王(孝霊天皇)に救援を要請しましたが、最初は無視されました。しかし、後にフトニ大王は決断を変え、2人の王子に播磨攻略を命じました。

2. 播磨奪還と吉備侵攻
 

フトニ大王の命を受けたヤマト軍は、ヒボコ軍を撃退し播磨を奪還しました。しかし、ヤマトは播磨を出雲に返還せず、そのまま大軍をもって出雲領の吉備国に侵入し占領しました。これにより、ヤマトの磯城王朝(しきおうちょう)を親戚と見ていた出雲王国は大きな衝撃を受け、防衛が遅れました。ヤマト軍の進軍によって、フトニ大王は吉備王国を建国しました。

3. 吉備王国の要求と出雲の抵抗
 

吉備王国は出雲王国に以下の2つの要求を突きつけました。

①吉備王国の属国となること


②出雲王家が所有する銅鐸と銅剣をすべて差し出すこと
 

出雲王国はこの要求を拒否し、これに対して吉備王国は出雲王国への侵攻を開始しました。フトニ大王は自ら吉備軍を率いて、伯耆(ほうき)に本営を構え、出雲王国と戦いました。

4. 出雲王国の大敗と要害山の戦い
 

出雲王国は吉備軍の前に敗走し、要害山での防戦を余儀なくされました。この戦いは、出雲王国の700年にわたる歴史の中で最大の戦闘となり、兵士の3分の1が戦死するという大きな犠牲を伴いました。この激戦の様子は『古事記』においても、オオナムチ(大国主)が兄の八十神(やそがみ)たちからいじめられ、殺される描写として記されています。

5. ヤマト王国の混乱と戦争の終結


一方、フトニ大王はヤマト大王の地位を失い、統一王朝の夢は叶わず、地方の一豪族に過ぎなくなりました。ヤマトは内紛に加え、筑紫王国の物部軍がヤマトへの侵攻を企てているという情報も入り、混乱が深まる中で、出雲王国と休戦を決定しました。フトニ大王は晩年を大山の北にある孝霊山で隠居して過ごしました。

その後もフトニ大王の2人の王子たちは出雲南部へ向けて進軍し、奥出雲で吉備軍と出雲王国軍が激しい戦いを繰り広げました。吉備軍は増強され、ついに出雲王国は降伏を決意し、銅鐸を埋納し、銅剣を青銅のインゴットとして吉備に差し出しました。これにより、吉備軍は満足し、奥出雲の占領を断念して撤退しました。こうして、第一次出雲戦争は終結しました。

 

6. 戦争の影響とその後


この戦争の結果、出雲王国と吉備王国は平和な友好関係を築くことになりました。出雲王国は銅鐸祭祀をやめ、王の墳墓を積極的に造るようになりました。これにより、墳墓祭祀(首長霊祭祀)が主流となり、外敵の侵入を先祖の霊に守ってもらうという信仰が強まりました。

 

出雲王国の墳墓は、四隅突出型と呼ばれる形をしており、これは正方形と「×」の組み合わせで出雲の信仰を反映しています。

 

×印は、出雲王家の象徴であり、男神と女神の交合を表すものでした。



7. 評価と戦術


第一次出雲戦争は現代のような大規模な戦争ではなく、地域間の小規模な衝突が中心でした。労働力の減少を考慮し、心理戦や局地戦が多用されました。出雲や吉備において大規模な殺傷痕のある遺跡が見つかっていないことも、この戦いが全面的な破壊を伴うものではなく、戦術的な駆け引きや情に流される面が強かったことを示しています。

出雲王国は徐福の子孫が治めるヤマトとの関係修復に多くの時間を要しました。同族間の争いであり、完全な滅亡を目指す戦いではなく、和平を模索する傾向が見られました。

以上のことから、第一次出雲戦争は、出雲王国とヤマト、吉備の関係を再構築し、地域間のパワーバランスに影響を与えた戦いでした。この戦争を通じて、出雲王国は青銅器祭祀から墳墓祭祀への移行を果たし、王国の宗教が変化しました。戦後、出雲王国は「祈り」による防衛を強化し、再び力を蓄えるための重要な時期を迎えました。

 

(続く)

 

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