皆さま

 

明治維新によって、日本は江戸幕府を中心とする封建的支配体制を打破し、天皇を頂点とする近代国家としての礎を築きました。

 

政治・経済・社会・文化などあらゆる分野で急速な近代化が進められ、立憲政治の確立や産業化の推進、国際社会での勢力拡張など、多くの変化が起こりました。

 

歴史の教科書を読めば、ザッとそんな感じでまとめられることでしょう。富国強兵と文明開化がスローガンであり、欧米列強に追いつこうすることによって得た恩恵はありました。

 

しかしながら、あまりにも急速な近代化によって失われたものについては、あまり顧みられてないような気もします。

 

最近、あるオンライン記事に目がとまりました。

 

 

 

この記事によれば、日本の城郭が無配慮に破壊されてきた背景には、明治政府の政策があり、その政策は日本の文化財に対する理解や保存の視点に欠けていたと筆者は述べています。

 

このため、日本の城郭や景観は大きな損失を被り、その影響は今も残っているといいます。

 

よって、日本の文化や歴史的環境の保護をもっと重視すべきだ、といった内容です。

 

 

確かに明治政府がやったことの中には、強引かつ性急な変化を推し進めた部分があると思います。

 

上記記事のように城の解体もそうですが、宗教施設や霊性文化の解体や破壊も行っています。

 

 

それによって、明治以前までの日本の霊性文化がかなりの程度消滅あるいは危機的な状況に陥ったことも事実です。

 

 

今回は、明治政府の宗教や霊性に対してやったことを列挙しながら、批判的に考察します。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

明治政府が宗教に対して行った政策・方針は、国家の近代化と一元的な統治を目指す中で大きな変化を伴いました。

 

明治政府の修験道陰陽道に対する政策も、神道国教化や国家統制の文脈で重要な役割を果たしていました。

 

これらの伝統的な宗教・信仰体系に対する政策は、特に神仏分離や近代国家建設の中での宗教統制に大きな影響を受けました。


修験道に対する影響

修験道は神道、仏教、密教の要素に加えて、シャーマニズムを含む民俗信仰と死者の霊が住む神聖な空間としての山の古代の崇拝を融合する高度に統合された宗教です。

 

修験道の特徴は、山での厳しい修行を通じて一度死に、新しく生まれ変わるという体験に集約できます。

 

しかし、神仏習合の上に成り立っていた修験道は、明治政府が天皇親政および祭政一致を理想として神仏分離を断行し、神仏判然に関する法律を相次いで発布した結果、廃止になりました。

1872年(明治5年)に公布された「修験宗廃止令」によって、修験道は天台宗か真言宗への帰属を迫られ、寺院として存続するか、復飾して神主になるか、農家になるかの選択を迫られました。

 

1868年の神仏分離令により、修験道も仏教的要素を含むため、仏教の影響を排除するという政策に巻き込まれました。

 

政府は修験道を「迷信的」と見なし、修験道の活動を禁止しました。その結果、多くの修験道の山岳寺院が廃止され、修験道に従事していた人々は行者としての活動を停止させられました。

一部の修験者は、神職として神社に仕えるか、世俗化して地域社会に溶け込む形で生存を図りました。

 

明治後期から大正時代にかけて、修験道は宗教法人法や信教の自由の流れを受けて徐々に再編され、合法的に活動を再開する動きも見られました。
 

 

陰陽道の禁止

 

陰陽道は、中国から伝来した陰陽五行説に基づき、占いや天文、風水などの技術を用いる体系でした。

 

江戸時代には幕府によって統制され、陰陽寮や陰陽師が活動していましたが、明治時代には新しい宗教政策のもとで大きく変革されました。

 

陰陽道は、明治3年(1870年)閏10月に発布された「天社神道廃止令」により廃止されました。この令は陰陽寮の廃止を目的としており、土御門配下の多くの陰陽師は身分と権利を剥奪され、表舞台から姿を消しました。

 

また、明治時代には西洋の太陽暦が採用され、祝日はすべて天皇に関わるものに定められました。

 

陰陽師は明治の禁止令以降は公式には存在せず、現在の土御門家は陰陽道から手を引いています。ただし、福井の天社土御門神道本庁に陰陽道の継承がなされており、神職を務めています。

 

政府は、陰陽道の占いや呪術を「迷信」として抑圧し、陰陽師の活動を制限しました。

 

その結果、陰陽道は公式には姿を消しましたが、民間陰陽師たちは姿を変えて生き残りを図ることになりました。

 

公的な抑圧にもかかわらず、陰陽道に基づく占いや風水などの技術は、民間信仰や民俗文化の中で細々と生き続けました。

 

現代においても、陰陽道の技術や概念は日本の伝統文化や新宗教、占いなどに影響を残しています。

このように、修験道や陰陽道に対する明治政府の政策は、神道を国家の基盤とする一方で、仏教的・道教的な要素を排除し、伝統的な信仰の影響を弱めることを意図していました。これにより、国家の近代化と中央集権化を進める中で、統一的な宗教観と信仰体系を構築しようとしたのです。

 

明治政府の宗教政策に関する批判的考察

 

明治政府の宗教政策について批判的に論じる観点には、以下のような要点があります。これらの批判は、宗教の多様性、信教の自由、文化遺産の破壊、そして国家権力の濫用といった側面から行われています。

1.宗教の多様性の破壊

 

明治政府は神仏分離令を通じて、神道を国家宗教として優遇し、仏教やその他の宗教を抑圧しました。この政策は、日本における宗教の多様性を著しく損ない、多くの宗教的伝統や実践を消滅させました 。
 

2.宗教の自由の侵害

 

政府による神道の強制は、信教の自由を侵害し、多様な宗教的実践を抑圧しました。特に仏教に対する廃仏毀釈や修験道の禁止は、多くの人々の信仰を断絶させる結果となりました 。
 

3.歴史的遺産の損失

 

神仏分離令と廃仏毀釈によって、数多くの仏像、寺院、宗教的遺物が破壊され、日本の文化遺産が失われました。これは日本の文化的多様性や歴史的価値を損なうものでした 。
 

4.宗教的建造物の破壊

 

特に、修験道に関連する山岳寺院が廃止され、多くの貴重な宗教建造物や芸術が失われました 。
 

5.世俗化の強制

 

 政府は近代化の名のもとで、教育や社会制度から宗教的要素を排除し、世俗的な価値観を強制しました。これにより、宗教的実践が個人の生活から切り離され、精神的な空洞化が進みました。

6. 民間信仰の抑圧
 

修験道や陰陽道は「迷信」として禁止され、多くの地域での伝統的信仰が強制的に排除されました。これにより、地域社会の文化や伝統が大きく損なわれました 。これらの政策は、地域の民俗文化やコミュニティの絆に深刻な影響を及ぼし、地域社会の精神的支柱を失わせることにつながりました 。

 

以上のことから、明治政府の宗教政策は、近代国家建設の一環として宗教を統制し、国家神道を強制することで宗教的多様性を抑圧しました。

 

これにより、文化的遺産や個人の信仰の自由が損なわれ、国家の権力が集中されました。こうした政策は、日本の宗教的・文化的風景に対して長期的な影響を与え、国家の近代化と個人の宗教的自由のバランスを欠いたものといえます。

 

 

明治政府のコアになった人々の思想的背景

 

とりわけ、長州藩や薩摩藩の下級武士出身の者たちが明治政府の中核を担ったことは、明治政府の宗教政策や霊性に対する態度に大きな影響を与えました。

 

彼らの宗教や霊性に対する態度や価値観は、多くの要因に基づいており、それが国家神道の確立や宗教弾圧の背景に繋がっています。

長州藩や薩摩藩では、下級武士の教育に朱子学が広く取り入れられていました。朱子学は、合理主義的かつ倫理的な儒教の一派であり、忠孝や礼儀を重んじる思想で、国家への忠誠を重視します。

 

幕末の混乱期には、国学(古事記や日本書紀を重視する学問)や水戸学(尊王攘夷思想)も影響力を持ち、これらは天皇を中心とした国家観を強化し、神道に対する関心を高める結果となりました 。

また、長州藩や薩摩藩の下級武士たちは、尊王攘夷運動を通じて幕府の権威を否定し、天皇中心の政治体制を理想とする思想を持ちました。この運動の中で、神道が持つ「国家統一」の象徴としての役割が強調されました 。
 

幕末期の武士たちは、西洋技術や科学に触れる機会が増え、合理主義や近代化の価値を認識するようになりました。この経験は、伝統的な宗教や霊性に対して懐疑的な姿勢を強める要因となりました 。
 

彼らは国家の近代化を実現するために、宗教を政治的に利用するという実用主義的な姿勢を取りました。宗教を国家統治の道具として捉え、国家神道を政治的統合のために推進しました 。


さらに、西洋科学の影響を受け、霊性や伝統的な宗教儀式を「非合理的」と見なし、これらを排除して合理的な社会構築を目指しました 。
 

とりわけ、霊的な神秘主義に対しては懐疑的で、科学的な合理性を優先し、伝統的な霊的儀式や信仰を抑制しました 。


また、霊性を国家統治の手段として利用し、国家神道において霊的な要素を国家権威の強化に繋げる形で活用しました。これにより、国家神道は単なる宗教以上に政治的な意味を持つこととなりました 。
 

たとえば、木戸孝允は、西洋的な近代化思想を支持し、宗教も国家統治のための道具と考えました。彼の宗教観は実用的かつ合理的であり、伝統的な宗教に対しては距離を置く姿勢を取りました 。
 

また、大久保利通は、国家の中央集権化を進める中で、神道を政治的統一の象徴と捉え、宗教の実用性を重視しました 。
 

さらに、伊藤博文は、国家の利益に合致する形で宗教政策を推進しました。彼は宗教の社会的役割を重視しつつも、過度な霊性の介入を抑える姿勢を取りました 。
 

 

まとめ


長州藩や薩摩藩の下級武士出身の者たちは、近代国家建設のために宗教を政治的手段として利用する実用主義的かつ合理主義的な態度を取りました。

 

彼らの宗教や霊性に対する価値観は、幕末期の社会的背景、朱子学や国学の影響、近代化の必要性に基づいており、国家神道の確立や宗教弾圧といった政策に反映されました。このような態度が、明治政府の宗教政策の基盤となり、日本の宗教や霊性文化に大きな影響を与えたのです。

 

それは、日本の多様な霊性文化の破壊という形での影響です。

 

神道が事実上の国教となったことにより、神社合祀も行われ、これによって地方の特色のある神社の祭事、祭祀までもが失われ、国家による標準的な祭祀に置き換わったわけです。

 

この点は、実際に愛媛県の神職の方たちとの懇談をしたときに、昔の独自の祭祀や祝詞も使えなくなり、地方の神社に伝わる伝統が失われたという話も伺っています。

神道さえも多様性と独自性を失ったわけです。

 

最近は、修験道の復興にむけた取り組みが活発になっていて、過去に行われていた儀礼の復活もされています。

 

女性の行者も増えていて、大峰山は女人禁制であるものの、多くの山岳宗教において女性が参加するようになってきています。

 

たとえば、出羽三山神社では1993年に「神子(みこ)修行」を創設し、女性を対象とした山伏修行を行っています。

 

神子修行は毎年9月6日から3泊4日、羽黒山中の吹越籠堂を道場として行われ、禊や勤行、山駈けなどの厳しい修行が課されます。修行中は「受けたもう」という言葉しか話せず、山中のお堂に籠って荒行も行います。

 

また、羽黒修験道では荒澤寺の秋峰にも女性が入峰することが可能です。山伏の本格修行はハードですが、ビギナー向けのプチ修行も用意されています。

 

たとえば、修行装束をまとって羽黒山の杉並木を巡り歩くイベントなどが開催されています。

 

一方、陰陽道は土御門神道が継承しているものの、その先行きは楽観的なものとは言えません。安倍氏直系の土御門家と関係が深い藤田家が受け継いでいますが、両家の子孫に継承の意思はなく、途絶の危機に瀕しています。

 

陰陽道の世俗化は、陰陽道や陰陽師に関するマスメディアによって進んだと言えます。TV、映画にはじまり、マンガ・アニメ、ライトノベルなど題材として扱われるようになっています。

 

しかし、メディアによる情報はかつての陰陽道の実像を正確に反映したものではなく、バイアスがかかり、誇張されたイメージが広まっています。呪術の専門家、無双状態の超人としての取り上げられ方をされているわけです。

 

その結果、公式にはいないはずの自称陰陽師が湧いてきているという状況も出てきています。

 

私たちは、神道をベースに、四国の民間信仰もマルチミックスした形で、ローカル&いにしえの民俗宗教の伝統を受け継いできました。でも、このままでは消えてなくなるだろうという危機感も感じています。

 

時代の流れにあらがうことは、馬鹿げた行いかもしれませんが、日本的な霊性感覚は私たちの深層意識に刻み込まれているものです。

 

これを再発見して、日本の文化的なアイデンティティを取り戻し、今の時代の要請にも応えられる動きにつなげていけたらと考えています。

 

びゃっこ 拝

 

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