皆さま
当ブログでは、これまでに海神信仰に関する記事を何件かアップしていますが、その中でも代表格と言えるところが宗像大社です。今回は海の神さまにまつわる信仰の地として、改めてご紹介いたします。
よろしくお付き合いくださいませ。
宗像大社
所在地:辺津宮…福岡県宗像市田島2331
祭神:
田心姫神(たごりひめのかみ)
湍津姫神(たぎつひめのかみ)
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
由緒
1.宗像三女神
宗像大社は天照大神の三柱の御子神、田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀っています。それぞれ、沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、田島の辺津宮に祭られ、三宮を総称して宗像大社と呼びます。宗像の地は古代より外国との交流の重要な拠点で、「日本書紀」によれば、天照大神の神勅により三女神が降臨しました。沖津宮の沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれ、多くの宝物が見つかり、これらは国家の繁栄と海上交通の安全を祈るために捧げられました。
2.道の神様
宗像大社は「道主貴(みちぬしのむち)」とも称され、最高の道の神として古代から信仰されています。交通安全のために石製の形代が捧げられ、遣唐使や鉄道関係者、自動車運転者も安全祈願に訪れています。宗像大社は交通安全の守護神として厚く崇敬されています。
3.弁財天との関係
宗像大社の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)は、琵琶を奏でる弁財天と結びつき、音楽や芸術、知恵、金運の神としても信仰されています。宗像大社は全国の弁天様の総本宮とされています。
信仰のスタイルは神仏習合の影響も受けつつ時代とともに変化していますが、そのベースには海神祭祀があるといえます。
北部九州には海神を祭る神社が多く、それは縄文ー弥生ー古墳の各時代において、北部九州が、地理的に見て中国大陸や朝鮮半島からの人や物の交流の表玄関だったことから定着した信仰が海神信仰だと言えます。
歴史を遡れば、縄文時代からすでに大陸から丸木船に乗って九州地方に上陸してきた人々がいました。家族など小集団の単位で漂着した人々、自ら船で海を自由に往来していた海の民たち=海人です。
九州には潜水漁法を行う海人が住み着いていきました。縄文晩期から弥生時代にかけて、戦乱の中国を逃れ日本列島に移住してきた人々もいました。
その上陸地点は、現在の長崎県、佐賀県北岸、福岡県北岸および山口県だと推定されます。
移住のルートとしては
1.中国の山東半島から朝鮮半島南部を経由して九州にいたるルート。
2.長江流域、江南地方から黄海を渡って九州にいたるルート。
3.華南地方から台湾、南西諸島を経て九州南部に移動するルート
などが主要なものとして考えられます。
いずれにしても,大陸や半島との交通は必然的に海路をたどる以外にはないわけで、航海術が未熟だったこともあり、船の漂流や沈没は当たり前のように起こっていました。
暗礁に乗り上げたり、暴風雨や高波に悩まされたりしたときには、波風が収まるようにカミに祈りを捧げて、ひたすら加護を求めるしかなかったわけです。
自然の猛威にさらされたとき、彼らはこれをカミの怒りだと解釈しました。
荒れ狂う海を見て、その背後に神の存在を感じて恐れおののいていた姿が浮かんできます。海に対する畏怖の念が海神のイメージを形成していったのです。
海神信仰は、①海上交通、②海の幸、③漁労生産にまつわる信仰が基盤になっていて、海自体を神格化したワタヅミの神(海神)と島を神格化した島神に分類できます。
ただ、島神は島に寄り憑いて支配し、同時にその周辺の海域にも影響力を持つ神と考えられるもので、海神と同様な特性を持った神と考えることもできるので、ここでは一括して述べます。
海神祭祀の方法には次に示すような2つのタイプがあります。
①海神投供……海中に品物を投げ込んで神に捧げる祭祀法
②陸上祭祀……海神を島や岬などの陸地において祭る方法
①の事例としては、紀貫之の「土佐日記」の中で、935年に紀貫之が土佐国司の任を終えて帰京するとき、大坂、住吉沖合にさしかかったときに風が強くなって船が進まなくなりました。船頭が住吉神の怒りにふれているので、供物を海に投げ込むようにと言うので投げ込んでみたにもかかわらず一向に効果がなく、それならと貴重品の鏡を投げ込んだら途端に風が鎮まって、無事に着岸できたという逸話が見えます。そして、供え物をしても波風が収まらないときには、最終的に人間も投げ込んだことが記録に残っています。
また、「続日本紀」には763年、渤海国から遣唐留学生達を乗せて帰国の途中だった船が暴風雨にあおられて漂流したときに、船頭が同乗していた婦女子と僧、合計4人を次々に海中に投げ込んで殺害したことが述べられています。つまり、海神への人身御供の風習がありました。
②の事例には、宗像大社の沖ノ島のほか、対馬の海神神社、和多都美神社も該当します。広島の厳島神社も瀬戸内海の海上交通の守護として宗像女神を祀っています。
前置きはこれくらいにして、私たちが宗像大社へ参拝したときの記録を掘り起こしてみました。
事の始まりは、出雲大社でいただいたメッセージで、次は宗像大社に行くようにとの「ご神託」を賜ったからです。
海神=龍神様にお会いして、お力をいただきたい一心で、私たちは陸路で四国から九州に向かったのです。
私たち巫師が個人的な動機で社寺巡礼をするのは、まず「ご神託」が下り、現地に赴いて様々な霊的情報や過去に起こった出来事に関する情報を得ること。
次に、その社寺での神仏意識との交流を通じて、その土地や神仏からのエネルギーをいただいて、霊的な力を強化するためです。
まず、私たちが向かったのは、宗像大社の拝殿。
お参りしたのは日曜日で朝から大勢の参拝客でにぎわっていました。
参拝にあたって焦点にしたのは、辺津宮でした。辺津宮には、市杵島姫神(いちきしまひめかみ)が祀られています。ここでは古くから宗像三宮の総社として、数々の祭祀が行われています。
辺津宮
次に、注目したのは高宮祭場。ここが宗像三女神ご降臨の地とされていて、今でも古式に則った儀式が行われています。宗像大社では古い時代の神道の祭祀の仕方が残っています。
高宮祭場
神籠(ひもろぎ)・磐境(いわさか)といって神社ができる前は、神さまのお住まいになる深い森と、神さまが鎮座される岩のある、このような風景が祭の現場だったのです。
高宮祭場は写真のように神さまの石を四角に並べて、その中を神聖な地として祀っています。
さて、辺津宮を後にして今度は玄海町の神湊へ行き、そこからフェリーに乗って筑前大島の中津宮まで私たちはお参りに行きました。
中津宮は、湍津姫神(たぎつひめかみ)をお祀りしています。海運業や漁業を営む人々の信仰が篤いお宮です。
中津宮
辺津宮のにぎわいとはうって変わって、ほとんど人気はありませんでした。ここでゆっくり静かにお参りをすることができたのは幸いでした。ここでは、はっきりと龍神様の気のエネルギーを感じとることができました。
最後に私たちが向かったのは、筑前大島の沖津宮遙拝所でした。
遙か彼方に沖ノ島を臨む
玄界灘の孤島、沖ノ島に鎮座まします沖津宮には、田心姫神(たごりひめかみ)がお祀りされています。
沖津宮では、大昔から、国の安全と海路の安全を祈って、大和王権による重大な祭祀が行われていました。この島からは、国宝級の古代祭祀神宝がたくさん出土していて、「海の正倉院」と呼ばれています。
私たちは沖津宮遙拝所で遙か遠くに見える沖津宮を一心不乱に拝んでいました。沖津宮が海神そして龍神様のお住まいになっている所だという確信を持ちました。
ここから沖津宮には定期船も出ていません。宮司だけが交代で神さまのお祭りをされています。しかも女子禁制の神の島なのです。
私たちは、海神さま、龍神さまと意識交流をして、お力をいただける別の場所を探すことになりました。この地で下りた神籤は「対馬へいくがよい」というものだったのです。
出雲⇒宗像⇒対馬へと3週連続で、海神信仰の神髄を学ぶ旅になりました。 出雲編については、別の機会にお話しいたします。
参考文献
小田不二雄「古代を考える 沖の島と古代祭祀」吉川弘文館,1988
宗像大社文化財管理事務局「海の正倉院 宗像 沖ノ島神宝」宗像大社,1992
巫師麗月チャンネル
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