皆さま

 

今回は、海の神さまであることがよく分かる、長崎県対馬市にある海神神社のことをお話しいたします。


よろしくお付き合いくださいませ。

 


由緒:本社は、延喜式神名帳所載、対馬上県郡の名神大社和多都美神社に比定され、神功皇后の旗八流を納めた所として八幡本宮と号し、対馬国一ノ宮と称されたもので、明治四年に海神神社と改称、国弊中社に列せられた。
 本社の造営は、古くは太宰府所収上県郡の貢租数カ年分を以て充てられ、藩政時代には藩費によって、およそ四十年ごとに造営されたものである。

 

ご祭神:主神:豊玉媛命
合殿:彦火火出見命、鵜茅葺不合尊、外二神

 



ここは今でも神霊反応の強い霊地です。私たちは対馬を訪れたときに、必ず海神神社にも参拝します。それは私たちの過去生の中に海神祭祀に携わっていた人生があったからです。


ここで海神神社のご祭神について補足説明をしておきます。彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)は、記紀神話の男神で瓊々杵命の御子であり末弟です。稲穂がたくさん出てくるカミ、産屋の火の中から出現したカミでもあります。やがて、豊玉媛命と結婚しました。その子孫は隼人族であるとも言われています。


鵜茅葺不合尊は、彦火火出見命と豊玉媛命の間に生まれた御子で、神武天皇の父神です。彦火火出見命が海神宮から帰国した後、母豊玉媛命が御子を産むべく夫のもとを訪れたとき、海辺に鵜の羽で屋根を葺いた産屋を作ろうとしたところ、葺き上げる前に生まれたので、このように命名されました。


ご祭神を見る限り、中国渡来系の人々が祀った<海の神>が対馬には多い印象があります。弥生時代に対馬に住んでいた人々は、朝鮮と九州を自由に往来して交易をしていたことが史料にも残っています。


また、海神神社が八幡宮とされていた時代、ご神体とされていたのが銅造阿弥陀立像です。これは今でも神宝として残っていて、統一新羅時代(8世紀)の造顕で、国の重要文化財に指定されています。これが窃盗事件に遭ったことでも知られています。

 

この新羅仏を「八幡大菩薩」として拝んでいたことになります。

 

八幡宮は日本で最初に神仏習合を遂げた神社で、八幡大菩薩を祀っていましたが、その後、祭神を神功皇后、応神天皇に改めたのは、海神豊玉姫と磯良の信仰が習合したためであると思われます。

 

その他、弥生時代の広形銅矛六例、我が国で初めて産した銀で作ったといわれる銀鋺、銀匙(674年)も神宝になっています。

 

さらには、八幡宮時代には、神宮寺として弥勒堂があったことが分かっています。この弥勒堂は消失した後、廃墟となったようで、出土品はもっとも古いものが11世紀(平安時代中期)、大半が12~13世紀のものであり、海神神社が八幡宮として隆盛を極めた時代を偲ばせるものです。

拝殿に向かうためには270段を超える石段を登っていかなければならないのですが、途中に磐座とおぼしき巨岩、さらに登っていくと潮騒の音がひときわ大きく聞こえる場所があります。その潮騒を聞いているうちにそれが海神からのメッセージとなって「お言葉」が下りることもありました。

 



ここは、巨大な海龍の住まう場所である。龍神様の強烈なエネルギーに満ちている。かつては対馬の海神=龍信仰の中心地であった。以前の神殿は、現在からはずれた場所に建てられていた。また、神社近辺の海岸で死者が埋葬されていた。子供を産むときも海岸に産屋を建てて産んでいた。

 



海神神社近くの海岸には「ヤクマの塔」といって、古代朝鮮の祭祀と通じる石積みの塔が何基も造られているのですが、この塔には磁力のようなものがあるというし、やがて「この塔の下には人が埋まっている。しかも村八分とか共同体から排除された人が埋葬されたお塚が、元々の始まりではないか」というのです。

 

ヤクマの塔

 

真偽のほどは定かではありません。
 

ですが、その後確認したところ、現在の海神神社は伊豆山という山の中腹に立っています。今でも原生林のおおい茂る神々の山です。

 

伊豆山

 

伊豆山のイヅというのは、神々を齋き祭るという意味で、人里より一山越えた北に位置する「異界」になります。

 

逆に人里の南には「保利山」といって死者の霊が住まう山も存在しました。かつては、人里を中心と考えて、その南北にある山に意味があったのです。

 

つまり、北の方角には、聖地・神々の世界・高天原、村落の中心は、人里・俗界・中津国、そして南の方角には葬地・死後往生する地・死霊の世界・根の国・黄泉の国という神話的な世界観があって、その立地条件を考慮した上で古代の人々は居住地を決めていたようです。

 

これは、「三分の世界観」によって定められたもので、古代中国の思想とも一致する世界観です。その世界観の中で、立地している「聖なる地」が伊豆山なのです。

 

 

 

 

 


また、かつて対馬に存在した習俗には、人が亡くなると、海辺に死体を埋めて、魂を海に帰して「埋め墓」を作り、拝むためのお墓は里の南側に寺を建ててそこに石碑を作って拝むという「両墓制」という習俗が近代まで残っていたそうです。

 

しかも、木坂、青海地区では浜辺に死者を埋葬していたことが文献を調べてみて分かりました。

 

ヤクマの塔は毎年、6月にヤクマ祭という祭りがこの地で行われるそうで、石積みの塔に御幣を置いたりして神事が行われるそうですが、ヤクマというのが何の意味かは今ではもうはっきりしなくなっています。


また、この木坂地域では海岸端に臨時の産屋を建てて、その産屋が未完成のうちに子供を産むという習俗が近代までありました。これは豊玉姫の安産に倣う風習であるといわれています。習俗的には東シナ海の海人文化では、出産は海辺でするというのが対馬に習慣として残っていたということです。


このように、人の生死と魂の行方を海に求めようとする世界観は、中国の「三分の世界観」とはまた異なる海人文化的なもので、縄文時代の早期にまで遡ることのできそうなくらい古いものといえそうです。


もう1つの特筆すべき点は、海を「魂の往来する世界」と見る世界観が対馬には残っていることです。

 

海は古語で「アマ」と呼んでいました。もアメのほかにアマと発音することがあります。海と天はともにアマであり、「彼岸」になるわけです。つまり、海は、神々や人の魂が往来する世界だと古代の人は思ったようです。


実際、対馬で水平線の向こうを見ていても、空と海の境界線がはっきりしない光景を私は見たことがあり、古代の人が天と海がつながっていると考えたとしてもおかしくはないでしょう。

 

対馬の「アマ」

 

このように、歴史的な影響で対馬には中国や朝鮮半島からさまざまな思想、信仰、世界観が入ってきたようですが、この島の祭祀の原点は「海」(アマ)であることだけは間違いないでしょう。

参考文献


永留久恵 1982 対馬の歴史探訪 杉屋書店


永留久恵 1994 対馬 歴史観光 杉屋書店


永留久恵 1994 古代史の鍵・対馬 大和書房


 
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