皆さま
私たちとご縁のある神さまは、稲荷大神と海神さまです。
稲荷信仰については事あるごとにお話ししてきましたが、海の神さまとのつながりについては詳しいことはお話ししてきませんでした。
今回は、日本の古代史とも深い関係のある長崎県対馬市にある和多都美神社のことをお話しいたします。
よろしくお付き合いくださいませ。
私たちは、対馬の神社、遺跡を幾度となく訪れてきました。その理由は、宗像大社の沖津宮遙拝所で受けた「お言葉」がきっかけです。「古代の海神祭祀、龍神信仰の本質を知りたいならば、対馬へ行くがよい」との神籤がおりたためでした。
以後、毎年のように「対馬詣で」を繰り返し、その度に古代の祭祀心理や古代人の思考様式について対馬の神々との意識交流を通じて、霊的実践にも役に立つ膨大な知識を得ることができました。
まず、私たちが対馬を訪問して最初に参拝に行くのが、和多都美神社です。この神社の特徴の 1 つに海上鳥居があげられます。
和多都美神社 拝殿
豊玉姫命
海上鳥居と言えば、広島県の厳島神社も有名ですけど、和多都美神社の場合は、鳥居が陸地から海上に向かって全部で 5 本も立っています。
干潮時 には海上鳥居の土台部分までがむき出しになりますが、満潮時にはそれが次第に水没していき、境内の周囲に掘られた水溝にまで海水が流れてきて、まさに海神(わたつみ)の宮の景観に豹変するのです。
干潮時の海上鳥居
満潮時の海上鳥居
もう 1 つは、磯良恵比須や豊玉姫命墳墓など、巨岩信仰、磐座信仰の痕跡が残っていることもあげられます。
豊玉姫命の墳墓(磐座)
対馬の民間伝承によれば、海神の娘豊玉姫命の子どもとして海童「磯良」(いそら)が登場します。磯良は亀に乗って海中を往来し、あるときは童子の姿、またあるときには老翁の姿で人々の前に姿を現しました。
磯良はふだん海底に住んでいるため、顔にはカキがへばりつき醜い顔をしていました。この磯良の伝承がやがて日本神話に取り入れられて、『日本書紀』では少童(わたつみ)と称する神々になったといいます。
イザナギが黄泉の国から帰還したおり、筑紫の日向の橘の小戸の檍原(あはぎはら)において、祓除(みそぎはらひ)を行ったときに生み出した「底津少童」(そこつわたつみのみこと)、「中津少童」(なかつわたつみのみこと)、「表津少童」(うわつわたつみのみこと)の三神がそれです。
磯良のイメージが老翁や童子の姿になるのは、深層心理学の立場から見ても説明できます。それは特に、老賢者(Old Wise Man)の元型に関連づけてみることができるのです。
老賢者のイメージは私たちの普遍的・集合的意識の表現されたものであると考えられられます。老賢者は、私たちに知恵を授け、その人の進むべき道を示唆する指導者的な役割を果たす元型です。
磯良伝承はこれを氏神(祖霊神)として崇め奉った安曇氏によるものですが、彼ら一族の中にいたシャーマンに、一族の運命を示唆する磯良のイメージを感得した者がいたことを示しています。
写真の通り、磯良恵比須は鱗状になった磐座です。
ワタツミはワタ=海、ミ=巳=蛇であり、海神とは海の蛇を意味します。磯良のイメージにはウミヘビのイメージも重なっていました。海から大きく長い蛇体の神が、この渚の霊石のある場所に這い上がってくる。そういう神との交信を行う祭祀場が和多津美神社のある場所で、かつて行われていたのでしょう。
仁位のシャーマンは、磯良との意識交渉を通じて、一族の過去、現在、未来を託宣したものと考えられます。ちなみに、磯良恵比須を囲んでいる三角鳥居について、和多都美神社の宮司さまに尋ねてみたら 1996 年頃に新しく設置したそうです。このタイプの鳥居は京都の蚕ノ社にあるので、関連性を知りたかったのですが、宮司さまも磯良恵比須は昔から聖地としてお祭りしてきたが、いったいこの磐座の謂われが何だったのか、今となっては全く分からないと言うことでした。
磯良恵比須
上の拡大写真
私たちが興味を持ったことは、記紀神話との関連性です。弥生人=倭族に共通する信仰として「水神=蛇」信仰があります。蛇も古今東西カミのお使いとして崇められていましたが、大和の賀茂氏が信仰したのはこの蛇神だったといいます。
この動物信仰について,少し加えておきたいことがあります。動物信仰の中でも蛇信仰はもっとも古い部類に属するものです。中国から龍信仰が入ってきて、これが縄文時代以来継承されてきた蛇神と結びついて龍神のイメージに固定されていったものと私たちは推察しています。
そこで、天孫族の祖霊神である豊玉媛命について、そのルーツをたどってみると対馬 の和多都美神社につながってくるのです。対馬には縄文時代から人が住み着いていて、中国大陸や朝鮮半島から来た人々も混じっていました。
彼らは潜水漁労をする海人(あま)でした。対馬では赤米を神の米として祀る風習が残っていますが、縄文時代から稲作は行われていたことが最近の研究で分かっています。海人が海神を祀るのは当然の帰結です。
【魏志倭人伝】には対馬について以下のような記述があります。
「始めて一海を渡る。千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。居るところ絶島、方四百里ばかり。土地は山険しく、森林多く、道路は禽鹿(そんろく)の径のごとし。千余戸あり。良田なく、海のものを食って自活し、船に乗って南北に米を買いに行く。」
この記述は、2世紀後半~3世紀頃の対馬の様子を示しているものと考えられます。
さらに、次の記述を見てみましょう。
「倭の水人は、好んで沈没して魚蛤を捕り、文身(いれずみ)し、もって大魚水禽をはらう。」
この記述から読み取れるのは、彼らの漁法が潜水漁法であり、サメよけ、水鳥の難を払うために、入れ墨をしていたと描写されています。彼ら水人は海神(わたづみ)=豊玉彦を祀り,その海神を始祖とする伝承を持っていました。
弥生時代の中心地だった仁位の和多都美神社のご祭神は海神豊玉彦、豊玉媛で、これに鵜茅葺不合尊(うがふきあえずのみこと)と磯良が合祀されています。また、和多都美神社のある場所が、海幸彦・山幸彦の伝説発祥の地であるとも言われています。
ここに日向神話との接点が生じます。豊玉媛命は日南、鵜戸の地で天孫族の御子「鵜茅葺不合尊」を産んだという物語になっています。出産の地が異なるだけで、他のストーリーはほぼ同じです。
どちらが先かという視点で見るのではなく、双方の地に海人族の拠点があり、彼らは同じ神話を共有していたのではないかと言うことです。海人族は古来より船を使って自由に往来していたと思われるし、黒潮の流れに乗って、対馬と南九州にそれぞれたどり着いたとも考えられます。
だから、同じ神話を持った部族が異なる場所に住んでいたとしても筋は通ります。
ただ、対馬の場合、明らかに海幸彦・山幸彦の伝説に則った習俗が残っていた点に注目しておく必要があります。たとえば、対馬市鴨居瀬の住吉神社のケースでは、本来の主祭神であるはずの住吉神を祀らず、その本体は対馬海神祭祀です。
すなわち、鵜茅葺不合尊と豊玉姫命の母子が祭神であり、和多都美の神を祀っています。また、神功皇后が応神天皇を出産した場所ともいい、2つの母子神話が混交している地域が存在するのです。
鴨居瀬の産ノ浦
この神社の周囲の浦は昔から「産ノ浦」と呼ばれ、ここに臨時の産屋を建てて女性は出産したといいます。豊玉姫命の神話に倣った習俗です。 また、鴨居瀬にはムラサキという海草が繁茂していたが、今ではめっきり少なくなってしまったと地元の方から伺いました。
透明度の高い海の底に紫色が鮮やかに映える。このあたりを紫瀬戸といい、神功皇后と彦火々出見尊に関する遺跡が残っています。
日南でも同じ習俗がかつてあったかどうかは不明だが、対馬には少なくとも海幸彦・山幸彦の神話を持っていた海人族の拠点があったことだけは確かでしょう。
和多都美神社には強烈な龍神様のエネルギーに満ちあふれている。龍神様というよりも、非常に胴の長い龍蛇神のビジョンが浮かんでくる。龍蛇神様が海上鳥居のある方角から陸に上がって、御神殿に鎮座される気配を感じる。
また、磯良恵比須は,この地の豪族だった磯良の墓ともいわれているが、強く感じたのは、むしろ古代のシャーマンが霊力をいただくために崇拝した磐座だ。鱗状の岩を龍蛇神様の顕れ(分身)として、大昔の人は崇拝した。
もう 1 つ。豊玉比売命の墳墓といわれている場所が、神社として整備される以前の祭祀場だったことは間違いない。私が感じたのは,ここで出産に関する儀式が行われていた。これは豊玉姫命の出産神話に倣ってのことだ。出産は穢れを伴うものと考えられたが、生まれたばかりの赤ちゃんを海水に浸して禊ぎの儀式を行い、健康に育つように海神に祈りを捧げた様子が見える。
このように、対馬の海人族は、海神をいつも意識しながら暮らしていた様子がうかがえます。
漁民であった彼らにとっては、ごく当然の信仰でしょうが、部族長はシャーマンでもあったので、海神の護りの力を得るために、また共同体の安全を願って、必死になって祈ったのです。
私たちは、和多都美神社で再び啓示を受けました。海神祭祀の本拠地に参拝するようにとの託宣が下りました。
その場その場で言われたとおりに私たちは動くようにしています。逆を言えば「お呼び」がかからないときには、必ずといっていいほど物事がスムーズに運ばないどころか、アクシデントなど危険な目に遭うからです。
何の「お言葉」も下りなければ、そこで巡礼は打ち切りとなります。しかし、対馬入りしてから、次々と蓮鬼に神籤が下がるようになり、私たちはレンタカーを駆って島内を縦横無尽に走り回ることになったのです。
なお、霊的な目で見た場合の補足事項として、和多津見神社はかつて強い神霊エネルギ ーの集積地点だったが、ご神体を他の神社に持っていったり、他の神社の宮司や神職が強い信仰心を持って神霊と意識場の同調を行い、眷属ごとごっそり連れて帰ってしまっていて、今では龍蛇神系の眷属が若干は残っているものの、本体のワタツミ(大海蛇)の意識場は存在しないといいます。
土地の波動は時代の流れとともに変遷するし、かつて信仰の中心だったところが他
の場所に移動してしまうということもあるようです。霊的感応の強い人々が拝み倒し続けると、そのお使いも連れて帰るし、ご神体を動かすと動かした先に本体も移動することがあるのです。
参考文献
(1)永留久恵 1982 対馬の歴史探訪 杉屋書店
(2)永留久恵 2001 海童と天童-対馬から見た日本の神々 大和書房
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