皆さま

 

人間はどう生きるのが幸せにつながるのかというテーマは、古今東西、多くの思想哲学者、宗教家がそれぞれの見解を述べています。

 

当ブログの場合で言えば、それは「あるがままに生きる」こと、「自然体でいること」「自然の流れに身を委ねる」「カミなる自然と共に生きる」などのメッセージとしてしばしば発信してきました。

 

今回は「あるがまま」をキーワードにした代表的な考え方を具体例をあげながら見ていきたいと思います。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

無為自然

東洋思想の中で、幸福に言及した最初の理論は中国の老子(紀元前571年ー紀元前470年)の考え方だろうと言われています。

 

老子の教えを端的に表す言葉に

 

「無為而無不為」(為すなくして 為さざるなし)

 

というものがあります。


すなわち、何もしないでいて、すべてのことが為されるという状態が得られて、初めて人は幸福になるといいます。

 

老子は人間の究極目的を「道(タオ)」との合一であると考えました。したがって「道」との合一を達成することが幸福ということになります。

 

老子の幸福論は、自然に従って生きることを重視します。老子は「道」という自然や宇宙の根本原理に従うことが大切だと説いています。幸福になるには、「道」に従い、無理なくシンプルに生きるべきだと考えます。

 



「道」とは、自然や宇宙の理法、すべての物事の背後にある秩序のことです。人間はこの「道」に従うことで調和の取れた生き方ができるとされています。

「無為自然」とは、無理をせず自然の流れに従うこと。必要以上に努力したり、無理に何かを変えようとせず、自然な状態でいることをさします。

例えば、川の流れに逆らわずに、流れに身を任せるような感じです。

また、自然の秩序に従って、物事を複雑に考えず、シンプルで素朴な生活をすることが幸福につながるとも説きました。

例えるなら、自然の中でゆっくりと過ごし、いつも穏やかな心で生活することです。

ここでいう「道」とは何かについて、さらに詳しく述べましょう。

要するにこの世界で起こっているすべての事象の背後に隠れている道理、原理、生命力の本質のことをさしている概念です。

この世界のすべての現象、人間はおろか、動物、植物、単細胞生物、無機物、原子、そして銀河、宇宙に至るまでのすべての対象の背後には、この「道」が潜んでいると考えます。

 

すべての事物や出来事は「道」を媒介して一体のものであり、相互に関連しあっているというわけです。

 

その意味で、この世界に存在するものは、何一つ無意味なものはなく、それぞれが「道」の表現されたものとして、かけがえのない存在なのだ、という世界観を老子は示したことになります。

老子は「道」にのっとり、我が身に「道」を体現した人のことを聖人と呼んでいます。

 

つまり、道には「作為」というものがなく、天地万物の自然なままのありようをさしているわけですが、聖人も作為をせず、自然のままの人間であるととらえます。

 

したがって、「道」が万物をとりまとめているように、聖人もまた万物を統括するにふさわしい人間となるわけです。
 

聖人が政治を行う社会では、人々もまた天地万物の自然のままに生きることができます。

 

このように、老子は何もなさず、すべて自然の流れのままに、あるがままに生きる人々の状態を幸福だと考えたわけです。

では、道にのとった無為のライフスタイルとはどのようなものでしょうか?

 

老子は人の欲望を刺激するものを排除します。自分の欲望を満たすものを追求していくと際限がなくなり、やがて心を狂わせてしまうからです。

 

今風に言えば、グルメもブランド志向もだめ、高級車を乗り回すことももってのほか、カラオケを楽しんだり、おしゃれをすることも論外ということになります。

 

つまり、今の社会では、およそ私たちの欲望や感覚を刺激するものを追求することは、すべて「道」に反する不幸な生き方になります。

こうした考え方がでてきたのも、老子が生きていた当時の中国の時代背景と無関係ではありません。

 

当時の中国は戦国時代。

 

王朝の権威は失われ、弱肉強食による諸国間の戦争はいつも続いていました。

 

人々の生活はというと、税金は重く、食料は乏しく、生存そのものが脅かされるような状況だったのです。

こうした危機的状況にあって、老子は社会的混乱の原因をもっぱら人間の欲望の発露にあるとみました。

 

そこで欲望そのものを絶つことによって混乱を押さえようと考えたのです。

 

 

無為自然

老子の哲学の中核をなす概念で、「自然の法則に従って行動し、無理に物事を操作しない」という考え方を示しています。この概念は、道教や老荘思想(老子と荘子の思想)の基盤としても重要です。

 

「無為」は「何もしないこと」と単純に解釈されがちですが、正確には「自然に逆らわないこと」、「無理に何かをしようとしないこと」を意味します。老子は、人間が作為的に行動することで、物事が自然の流れに反する方向に進むことを避けるべきだと説いています。作為的な行動はしばしば無駄や混乱を生むため、自然の流れに任せて行動することが最善であるとします。

 

「自然」は「自然そのもの」や「ありのままの状態」を意味します。老子にとって「自然」とは、人間を含むすべての存在や出来事が本来の状態であることを指します。つまり、外部の干渉や人為的な変更を加えず、物事が本来の姿を保つことが望ましいとされます。

 

無為自然の3原則

 

1.非干渉……老子は、「人為的な干渉が少ないほど、物事はより自然に、そして調和の取れた状態になる」と考えました。このため、無為自然の実践者は、他者や自然のプロセスに不必要に干渉することを避けます。

2.柔軟性と適応……無為自然を生きる人は、自然の変化に柔軟に適応します。これは、状況や環境に応じて行動を変えることで、無理に逆らうことなく、最も自然な形で物事に対処する態度を意味します。

3.謙虚さ……無為自然を体現するには、自分の力や意志をあまりにも重視せず、謙虚に自然の流れに任せることが求められます。この姿勢は、周囲のものと調和することを目指します。

 

 

無為自然を肌で感じる方法としては、いくつか具体例をあげて説明しておきます。

 

1. 水泳のスキル

 

考えてみてください。水泳をするとき、力を入れすぎると水の抵抗を受けて前に進みにくくなります。でも、体をリラックスさせて自然な動きで泳ぐと、抵抗が少なくなり、楽に進むことができます。無為はこの「リラックスした泳ぎ」のようなものです。無理に何かをしようとせず、自然の流れに身を任せることで、うまく進むことができるのです。

2. 風に揺れる木を観察する

風が吹くと木の枝や葉が自然に揺れます。木は風に逆らって無理に止まろうとはしません。その揺れは自然の力に身を任せているからこそ、枝が折れたり傷ついたりしないで済むのです。これが無為の考え方で、「自然の力に逆らわず、自然の動きに任せる」ということです。

3. 庭の手入れから気づく

庭の草花を育てるとき、無理に水をたくさんやったり、肥料を過剰に与えたりすると、植物が弱くなったり、枯れたりします。適度な手入れをして、自然の力を信じて育てるのが一番良いのです。無為は、必要以上のことをせず、自然の成り行きに任せることです。

4. 親子関係を振り返る

親が子どもを育てるとき、あまりに干渉しすぎると、子どもが自立できなくなったり、反発したりすることがあります。しかし、子どもの個性や成長のペースを尊重し、見守りながら適度にサポートすることで、自然と成長するのを助けることができます。これが無為の考え方で、無理に何かを押し付けず、自然の流れに任せることで、物事がより良く進むというものです。

 

 

「あるがまま」に関連する日本的な概念

 

「無為(むい)」と「自然法爾(じねんほうに)」、「かむながら」、「あるがまま」は、いずれも自然に従ったあり方を重視する哲学的・宗教的概念ですが、文化的・思想的背景によって微妙な違いがあります。それぞれの概念を理解し、その類似性や違いを見ていきましょう。

 

自然法爾(じねんほうに)

仏教用語。もとより、おのずから、しからしむるということ。

特に、親鸞によって重視された言葉で、自己のはからいを打捨てて、阿弥陀如来の誓いにすべてを生ききることです。

すべての存在や出来事が、仏の働きによって自然にそうあるべき姿であることを感得することです。

 

人間の意志や行動とは関係なく、仏の計らいによって自然に物事が展開されるという考え方です。人間が自力で何かをしようとせず、仏の計らいを信じて任せる姿勢を意味します。

 

要点

  • 仏の働きや計らいを信じ、受け入れる。
  • 自分の力でどうにかしようとせず、自然のままに任せる。
  • すべての現象が仏の意図に従っているという理解。

 

かむながら

神道の概念

 

万葉集に


「葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)の国はかむながら言挙(ことあ)げせぬ国」
 

という歌があります。

 

その意味は、葦原にある瑞穂の国(=日本)は、神のお心のままに、(人は自分の考えを)言葉に出して言い立てない国であるとことになります。

 

 

神とともに「あるがまま」に生きること

 

神道における「かむながら」は、「神の意志に従い、自然のままに生きること」を意味します。

 

人間の行動や意識が神々と調和し、その結果として自然な生活や行動を実現することを重視します。

 

要点

  • 神々と一体となり、神の意志に従う。
  • 自然や環境と調和した生活を送る。
  • 自然のままに、神の存在を意識しながら生きる。

 

「無為自然」、「自然法爾」「かむながら」、そして「あるがまま」は、いずれも「自然のまま」「無理をしない」という点で共通していますが、背景となる宗教・哲学が異なるため、その意味やニュアンスに違いがあります。

 

それぞれの概念は、異なる文化や宗教において、自然と調和した生き方を追求する際の指針として機能しています。

 

 

まとめ

ここまでの話をまとめます。

私たちの生活を振り返ってみると、「作為」が非常に重視されていることが分かると思います。

 

人間は基本的に「快」を追求する動物です。

 

その究極の目的は幸福になるわけですが、どのような形の幸福であれ、快を追求するからには、その裏に欲望や意志というものが働くことになります。

 

こうして、快を追求するために何らかの行動をとり、作為をすることで、人間は幸福へと向かって生きていくのです。

 

人間を積極的、能動的な存在としてとらえている立場から見れば、いつも忙しく振る舞い、いつもなにかしていて、いつもより多くのモノを手に入れようとしていると、何もしていない、何も手に入れられていない状態に対して、心配事が増えたり不安に駆られることになるかもしれません。

 

また、際限なき欲望を満たすことで、手にできるものは大きいかもしれませんが、余裕のない毎日、時間に追われながら日々の仕事をこなすのに精一杯。燃え尽きたり、精根尽き果てることもあるかもしれません。

 

さらに、成功と引き換えに、失うことを恐れ、強いストレスを抱える可能性も出てきます。

 

他方で老子の場合、欲望をすべて絶ち、何もなさない状態でいることが幸福への道だと説いたわけです。

 

誤解しないでほしいことは、何もしないで放置がベストの生き方であり、本当の幸福なのだという意味ではありません。

もし、本当に何もしなければ、私たちはたちまち生活に困り、飢えてしまいます。そういう意味で「無為」をとらえるのではありません。


すべてがうまくいくためには、肝心要のポイント(生活のための必要十分条件)だけを押さえておけばOK。

 

これを押さえずに、さほど重要でないことに手をかけ始めたら、何事もうまくいかなくなってしまい、いくらでもやるべきことが発生して、忙しくて仕方ないという状況になるわけです。

 

そんな「ゆとり」のない生活は「無為」ではない、と言っているのです。

 

無駄なこと、浪費すること、何でもほしいと手を広げること、あれもこれも追求していくような生き方は、多忙なだけでエネルギーを失い、一番肝心なものを逃してしまうぞ、という戒めの意味が込められているのでしょう。

 

歴史的に見て、人間は意識的に存在しようとする営みに身を費やすようになりました。

 

19世紀以降、労働を重視する考え方、科学・技術の発達などによって、自然をコントロールすることが人間の使命としてとらえられるようになりました。

 

ところがこの営みの中に身をさらすことで、人間は自らの存在基盤を見失うようになったとも見ることができます。

 

「あるがまま」(Being as I am)であることから離れて、作為(doing)に身を委ねる態度、つまり「なすがまま」を重視するようになっていったのです。

 

このことは、明治以降の日本のたどった道にもあてはまります。今ではさらに「なすがまま」が常態化しています。

 

 「なすがまま」を重視することは「すること」、「もつこと」を当たり前だとする価値を生み出すようになります。

 

近代以降の社会では、積極的に行動すること、多くのものを所有すること、努力することこそが幸福を獲得するための条件とされるようになりました。

 

これに対して、無為であること、捨てることは「なすがまま」の価値基準から見て、否定的な意味しかもたなくなります。

 

何もしない人間は単に怠け者であり、すべてを捨てることは愚か者として蔑視されることになるのです。


しかし、「あるがまま」とは作為が否定された自然な有様をさしていて、「すること」と「もつこと」を放棄することで達成される状態です。

 

以上のことから、人間の本来的で自然なありようを理想と考える観点からは、「なすがまま」からの脱却こそが幸福へと至る道になるのです。

 

ただし、これは価値に関係する問題ですから、自分に合ったライフスタイルを選んで実践していけば良いことです。

 

 

多忙な毎日の中で、ふと「このままで良いのだろうか?」といった考えが頭をよぎった方のために、少しでも参考になれば幸いです。

 

 

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