皆さま
神仏の因縁(宗教因縁)について説明します。
1.前世で寺や神社、神仏に縁がある場所を破壊した。
2.前世で神仏に仕えていた者を殺した。
3.前世で神の名を使い金儲けをした。
4.現世で霊能力もないのに霊力があり神の名を使って金儲けをしている。
5.現世で霊能を呪詛に利用した。
このような行いは神様からの罰、怒りの念を受けます。そうなれば守りの先祖霊も守護霊からも離されます。自分を助けてくれる人たちとの関係さえ断ち切られます。孤立無援、八方ふさがりの人生が待っています。
地獄のような苦しみに満ちた人生を送らなければ許してもらえません。神様が許してくださるまで次々と<お試し>もあります。身体の自由が利かないこともあります。
低級霊や悪霊が憑いた場合や霊能の家系の人間は別ですが、物心ついた時から霊媒体質や霊感があり、どちらも「受けるだけの人」は前世の<神仏念>が来ている可能性があります。
覚えてほしいことは、どんな神様でも、けっして友達のような関係にはなりません。前にも述べたように、神様と人間との関係は非対等であり、親と子の関係です。
よく神様の名を使い、友達のように話をする人がいます。ですが、そもそも神と人間とでは格が違います。人間と比べようのない存在が神様ですから。
もし神様からのメッセージを受けたら敬語(謙譲語)を使います。
註.謙譲語とは、へりくだった言い方で相手への敬意を表す敬語表現です。謙譲語は、尊敬語が相手を持ち上げる表現であるのに対し、自分がへりくだることで、敬う気持ちを示します。謙譲語の例としては、「私が先生のお宅に伺う」「上司の資料を拝見する」などがあります。謙譲語は、動詞・名詞ともに存在し、身近なところでは「弊社」「私(わたくし)」、「いただく」「参る」といった表現があります。
人に話をする時も同じです。相手を敬い、自分は何歩もへりくだって接するのが「神対自分」のあり方です。漫画のようなタメ口を吐く者は神様のことををおよそ知らない人です。
仏像や神棚に人間の魂は宿りません。もし宿るとすれば、御霊も入っていない仏像や神棚に悪霊が宿ります。生きている人間が宿るような事は起こりません。
お札や仏像に御霊を入魂する祈祷は難しく、ただお経や祝詞をあげたぐらいでは御霊は入りません。ただし信仰心がある人間は、神様の存在を信じて日々感謝をしながら、粗末にしていなければ神様の方から入って来られる事はあります。
何故ここまで学び、信じ、頑張っているのに腑に落ちない、何かが引っ掛かり、上手く行きそうで行かない障壁が現れるのか?
そんな考えが心によぎる人は、前世の神仏の因縁が繋がったままなのです。
これもカルマだと簡単に済ませてはいけません。
カルマはカルマでも、神仏に関する前世ないし現世でのそれは、意味も内容もまったく違います。
私は、神仏に関わるカルマを取り除く時は前世に縁が合った神様を呼び出し、お越しいただきます。そして前世の神様が解れば、その神様を祀るように助言します。
そして神の道を作り、神様の分霊を頂き、本人の罪深い前世に鎮座して頂くように平身低頭して請い奉るのです。この点を、分かりやすく説明すると、前世のカルマの記憶は「罪を背負ったカルマ」ですから「前世での罪を償います、あるいは償いました」という証として分霊に鎮座していただくのです。
ですが、人間は、すぐに気が変わります。信仰心とは納得しないと中々もてないものです。
最終的には目に見えない世界を納得するまで学ぶ事が出来るかどうかです。
カルマだけでなく人間の肉体は神様からの借り物です。肉体の右半分は神様と繋がっています。左半分は先祖(守護霊を含む)、良い霊、悪い霊と繋がっています。
肉体または内臓の左半分は霊道、右半分は神の道と言われています。自分の体をこの機会に調べて見るのも良いと思います。
ここまで、前世の念、現世の念、未来の念、無縁の念、因縁、動物の念、そして神仏の念について説明してきました。
私たちが現世に生まれ変わったのは、過去生において「何か不完全なこと」「やり残したこと」があるためです。悔いなき人生を送るためには、少しでも「念」を受ける原因を取り除き、過去の自分と決別する行いを積み重ねていく必要があります。
ここで皆さまに問います。
これまでの人生において、一切の「念」を生み出す、あるいは念を受けるような行いをしなかったと言い切れる人はいますか?
いるとすれば、あなたの魂は「六根清浄」になっています。
註.「六根清浄」は、仏教の教えの1つで、人間の6つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清らかにすること、またはその状態を指します。「六根」は、私欲や煩悩、迷いを引き起こす感覚器官を指し、「清浄」は煩悩や私欲から遠ざかり、清らかで汚れがない境地を意味します。六根清浄大祓(ろっこんしょうじょうのおおはらえ)は、人間に備わった六根(目、耳、鼻、舌、身、意識)を清浄にする。願望成就の祝詞といわれています。神仏習合が長く続いてきた日本で仏教の影響を受けている祝詞で、仏教、修験道の方も奏上されています。
もしも、あなたが六根清浄ならば、立ちはだかる障壁も、敵対する相手も、いかなる生霊・死霊にも影響されず、万事、順風満帆に過ごしてこられたはずです。そういう人は、もはや禊ぎも祓いも必要のない状態で、生まれ変わる必要のない魂の持ち主になります。
私が知っている限り、このような境地に至った人はお釈迦様しか存じ上げません。
私にしても、これまで不完全燃焼の人生、「念」を受けてきた人生の繰り返しでした。ある意味で「罪深い存在」だったから、宗教因縁の塊のような存在として霊能の家に生まれ、人には言えないような苦しみを味わってきたのです。
自分で自分を祓えるなら、それに越したことはありません。でも、現実は自分の予想を裏切るような出来事ばかりです。そういった辛く、苦しく、悲しい人生を過去のものにして、負の連鎖を断ち切るには、まだまだ未熟な私です。
少しでも他力=神仏の世界から外れるような行いをしたら、また一からやり直しになります。
「自分は生まれてこの方、何も罪を作るような行いをしてこなかった」と言い切れますか?
自分は完全無欠だと思うことで、現世の自分を正当化して、正しい道を歩んできたのだと思い込んでいるだけではありませんか?
神仏に対する疑念や、それを遠ざけるような行いを一瞬でも感じたら、その時点で罪穢れが生じるのです。いくら赦しを請うても取り返しのつかないことをしてしまった人もいます。
完全無欠の人間など、どこにもいません。自分は不完全な存在であるという反省のこころが足りていないから、今ここで色んな想念に翻弄されている自分がいるのではありませんか?
波瀾万丈の人生を送ってきた事にも意味があります。綺麗事なしで、冷静になってよく自分の人生を振り返ってみて下さい。どこかに罪穢れがあるから、今の自分があるのです。
それに気づいたら、金輪際、これまでの自分の生き方や行いを繰り返さないように、「他力」に身を委ねる覚悟が必要となります。
少しでも自己浄化を目指していくためには、たゆむことのない自己努力が求められます。自己努力、つまり「自力」の果てに「他力」による救い、魂の浄化がもたらされるのです。
そのことを心して、日々の生活を穏やかに、円満に、自分に嘘をつかず、周りの人にも嘘をつかず、自然体になって正直に生きていきたいものですね。
麗月 謹上再拝
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