令和5年12月5日

 

辛酉 九紫 開 参 一粒万倍日

 

註.一粒万倍日とは、日本の吉日のひとつで、暦の選日(せんじつ)のひとつです。選日とは、日の吉凶を占うもので、その日の干支によって決められます。一粒万倍日には「一粒の籾(もみ)をまけば、万倍の籾をもった稲穂になる」という意味があり、自分の言動が万倍になって返ってくると言われる日です。つまり、小さな行動が万倍もの成果に繋がる開運日で、「何かを始めたり、新調する」のにぴったりな日です。
 

一粒万倍日にすると良いこととしては、次のようなものがあります。

・お財布の買い替えや使い始める
・金運をアップさせる
・婚姻届の提出(入籍)や結婚式の日取り
・宝くじの購入

一方、一粒万倍日にやってはいけないこととしては、次のようなものがあります。

・借金や人からものを借りること
・夫婦や家族、仲間との小さないさかい

 

自分の言動が万倍になって返ってくるということは、良き行いのみならず、悪しきそれも万倍返しになります。この点には注意してください。

 

 

  前世探しのリスク

 


私は生まれ変わりについては否定しません。

 

でも、自分の前世(過去生)探しはリスクを伴う行為だと思います。また前世の行いや罪を償う事も間違っていると私は思います。

このことは、特に自分の前世が神仏に関わる立場だったと言う人にあてはまります。

たとえば、巫女だったり神主、僧侶、神官だった前世の持ち主にはまず前世記憶は甦りません。神仏がその人の過去の人生の記憶を消しているからです。

なぜだと思いますか?

神仏に関わっていたという事は、その時代に起こった出来事をもちろん知っているし、その時代に活躍した人物の具体的なこと、今では失われた(あるいは隠された)歴史的な事実を知っているはずだからです。

宗教者が歴史に深く関わっていることは、日本に限ったことではありません。古今東西、宗教と政治、宗教と国家が深い関わりを持っていることは世界中で見られることです。日本史や世界史を学んだ人なら、宗教が歴史を作ってきたことは分かりますね。

もしも宗教者の前世記憶を持っている人なら、今では「歴史の謎」になっていることについて詳しく語れるはずです。考古学者や歴史学者が今でも色んな説を唱えていますが、どんなに研究してもいまだに解明されていない謎がたくさんあります。文字が存在した時代ならともかく、日本では文字の普及していない時代が漢字が導入されるまで続いていました。それに、文字を持たなかった文化も世界中に存在します。

たとえ文字のない時代で神に仕えていた人でも、その当時のことを細かく「覚えている」はずです。昔は戦いや国造り、城などを築くために神仏に頼るのが当たり前の時代もありました。なので、宗教者が時の権力者の「秘密」に関わる立場にあったのです。

前世の記憶が甦る事はあります。でも、そのケースは多くの場合「一般人」としての記憶です。もし前世が巫女だった、私は●●神社を知っている、▲▲寺を守っていたなどと言う記憶が事実なら、その時代のその神社・寺院の歴史的事実について、どのような本にも書いていないような出来事を教えてほしいと思います。それに研究者にも協力できるはずですね。

「それは秘密だ」と言うなら私には言い訳にしか聞こえません。

私の言うことを信じる信じないは、皆さまが判断されることです。前世の記憶は神仏に縁深い人ほど肉体と感情が反応するだけです。決して「言葉」を発するようなことはありません。

「私は昔、◎◎神社に仕えていた」とか「私は○○の仏様に仕えていた」などと言う言葉は出ないはずです。まして昔はお寺なら女人禁制。神社なら巫女になれるのは処女でした。

そのような前世を持つ人は、現世でも結婚は勿論の事、子を産むなどはできません。

 

事情があり子を産めなくなったというなら話の筋は通ります。


もう1つは結婚したとしても子供はいない。

神はその時代の穢れに関わる出来事、争い、歴史などを口に出せなくするために記憶を消しています。

もしあなたが前世で神に支える巫女だと思うなら、そう思うのは自由ですが「自分探し」と「前世探し」を混同しないようににする事です。

過去にばかり目を向け、遡ると言う事は自分の未来を消滅させるのと同じ行いです。過去生の記憶が消去された状態で、現世を生きていく。自分の命をどの方向に向けて生きていくかで未来も変わります。

このような話をするのも、最近、私のところに相談に来る方で自分の前世を知りたいと言う人が多いからなのです。自分の前世は有力な大名、家老、武将、武将の娘・息子では?と思い込んでいる人が大勢いらっしゃいます。

でも、よく考えてみてください。昔は身分制度がありました。王族、貴族など高貴な身分の人が全人口に占める割合は非常に少なかったはずです。同様に宗教者として一生を過ごした人の割合もわずかでした。

私の所に相談に訪れる方で、特に若い女性ほど口を揃えて「前世で私は巫女ではありませんでしたか?」と訊いて来るのです。私に「そうですよ」と言ってほしいようで、ご本人は確信を持っていたりもします。

自分は神様に仕えていたから現世でもう一度霊的世界を学びたい。そうしないと自分は前進できないと訴えてきます。

でも、前世は過去の事です。過去に縛られてばかりいては、ますます前進できなくなってしまいます。

仮に私が「あなたの前世は10人きょうだいの末っ子でした。寒村の中でも一番貧しい家に生まれ育ち、飢えて亡くなりました」と言えば、100%怒ってそのような「前世」をだれも信用しません。いいえ、信じたくないのです。

高貴な身分、あるいは神仏に仕えて「選ばれた人」だったと言えば嬉しくなり、その気になって神社・寺院を巡る旅を始める。どんどん前世探しをしてしまう。それが危険な事だとも知らずにです。

前世でもし大きな罪があると思うなら、逆に「今」をしっかり生きていくこと。今、ここで生きていく中で慈悲や優しさ、労りの気持ちを持つことが大切です。

ただし、前世にこだわらない人なら神社巡りも前世の罪を消滅させる事と同じ意味になります。

麗月 謹上再拝

 

 

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