皆さま

 

最近の医療技術の進歩は目を見張るものがあって、近い将来、人の頭部の移植も可能になると言います。

 

今回は、人間の頭部移植技術に関するニュースを取り上げ、これを霊性の観点から考えてみたいと思います。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

最初にみたソースは以下のサイトでした。

 

 

さすが学研のムー、どこまでもアメージングなネタを提供してくれるなと感心したのですけど、念のため元ネタになっている情報源を辿ると

 

 

イギリスの大衆紙の記事が情報源として出ていました。

 

 

いろいろと掘り返してくと、頭部移植をめぐる話題はかなり昔からあります。

 

このようなテクノロジーがいずれ実現するだろうということは、ある程度予想はしていたわけですが、8年以内に実現可能とか出ています。

 

たとえば、ステージ4の癌、全身麻痺、パーキンソン病など、現代医学では治療が難しい重篤な疾患を持つ患者にとって、頭部移植は新たな治療法となり得ます。これにより、これらの患者が新しい体で再び健康を取り戻す可能性が生まれるといいます。

 

重篤な身体障害や難病により生活の質が著しく低下している患者にとって、頭部移植は延命だけでなく、生活の質の向上をもたらす可能性があります。新しい健康な体を得ることで、日常生活や社会活動への参加が可能になるというのです。

 

頭部移植の成功は、神経科学や生物医学工学、移植医療の分野において大きな進歩を意味します。これにより、他の治療法や技術の開発にもつながる可能性があります。

 

 

しかし、その反面、宗教や霊性の視点から見ると問題点も指摘できます。

 

多くの宗教は生命の神聖さを強調しており、人間の身体を神聖なものとして扱います。頭部移植手術は、身体を分割し再結合する行為であり、これを神聖な身体への冒涜とみなす宗教もあります。
 

魂や精神がどこに宿るかという問題は宗教ごとに異なります。例えば、キリスト教やイスラム教などでは、魂が体全体に宿るとされており、頭部移植により魂がどこに宿るのかという深刻な問題が生じます。

 

一方、仏教やヒンドゥー教などでは、輪廻転生やカルマの観点から、身体の再構成が魂にどのような影響を及ぼすかが問題視されるかもしれません。

それに、多くの宗教では、自然の秩序や神の意志に逆らう行為を禁じています。頭部移植は自然の秩序を超える行為とみなされ、神の意志に反するとされる可能性があります。これにより、宗教的な反対が生じることが考えられます。

 

このニュースを見る前に、似たような話をどこかで読んだ記憶があって、色々と調べてみたら、中国発のニュース(2017年)がありました。

 

イタリアの脳外科医と中国の整形外科医のコラボです。

 

 

 

 

これはある人の死体の頭部と、他の人の死体の脊椎・血管・神経と接続することに成功したというものです。

 

この延長線上で、生きた人の頭部を脳死状態の人の首から下をつないで延命を図るという段階に発展していたわけです。

 

上記記事の中国人医師のコメントを読んでみて、強い違和感を覚えました。

 

まず、任教授は腎臓移植や心臓移植などの過去の医療技術の例を引き合いに出して頭部移植の正当性を主張しています。しかし、腎臓や心臓などの臓器移植と頭部移植は倫理的、技術的に全く異なる次元の問題を含んでいます。

 

臓器移植は特定の機能を持つ臓器の移植ですが、頭部移植は意識、記憶、人格などの自己同一性=アイデンティティに直結する問題です。このため、過去の移植手術と同じように扱うことは適切ではありません。

任教授は、倫理的な問題を「議論するべきだが、妨げることはできない」と述べていますが、これには倫理的懸念を軽視する態度が見受けられます。

 

倫理的な問題は単に議論するだけではなく、実際の行動に反映させる必要があります。患者の権利や人間の尊厳を守るためには、倫理的な枠組みの中で慎重に判断しなければなりません。


さらに、任教授は、技術の進歩が不可避であり、歴史がそれを証明していると述べています。しかし、技術の進歩そのものが正当化されるわけではありません。

 

技術の進歩には常に倫理的なガイドラインが伴うべきです。

 

頭部移植のような極端な技術の場合、その影響範囲は非常に広範であり、個々の倫理的な問題だけでなく、社会全体への影響も考慮する必要があります。


さらに、任教授は、「倫理の根幹をなすのは生命と生存であり、これがなければ倫理も成り立たない」と述べていますが、これは生命倫理の一側面に過ぎません。

 

生命と生存の重要性は否定できませんが、これが全ての倫理的判断を凌駕するわけではありません。

 

例えば、患者の自己決定権や尊厳の尊重も倫理の重要な要素です。医師の使命として生命を守ることは重要ですが、それがすべての倫理的懸念を超えるものではないことを認識した方が望ましいと思います。

 

私たちの見解としては、任教授の見解は技術の進歩を過度に楽観視し、倫理的懸念を軽視している点で批判の余地があります。倫理的な問題は単なる議論の対象ではなく、技術の進展に伴う必須のガイドラインとして厳格に考慮される必要があります。

 

 

この動画を見たら、さらに違和感を覚えるのですけど、もうホラーですね。これが近未来の医療技術のイメージとして宣伝されているわけです。ロボット&AIが人体のすげ替えをやってくれるという。

 

 

 

 

大富豪が飛びつきそうなテクノロジーかもしれませんが、胴体をすげ替えまくって生きながらえるという選択肢も視野に入ってきました。費用も数十億円という数字も出ています。

 

 

こうした移植技術に伴う問題として、「生命とは何か」といった根源的なところまで考える必要があります。

 

 

アリゾナ大学の医学者シュワルツとラセックが、普遍的生命記憶仮説(universal living memory hypothesis)を提唱しています。

 

 

参考文献:

 

Schwartz,G.E.R.,& Russek,L.G.S. 1999 The living energy universe. VA:Hampton Roads.

Pearsall, P., Schwartz, G. E. R., & Russek, L. G. S. 2002 Changes in heart transplant recipients that parallel the personalities of their donors. Journal of Near-Death Studies, 20(3), Pp.191–206.

 

 

 

この仮説は、すべてのシステムの中で情報は「活きて」おり、保持され、統合的に進化していくというものです。システムがもっている記憶は普遍的生命記憶と呼ばれます。


すなわち、素粒子に始まって、原子、細胞、器官、有機体、意識、家族、共同体、地球、太陽系、銀河系、全体としての宇宙などのシステムは生命情報系であり、物理的、非物理的に関わらず、”活きて”おり、進化を続けていると考えるのです。


このような世界観に基づくならば、原子、分子、細胞レベルの記憶が他のシステムに伝達したり、同調していくという可能性も出てきます。

 

シュワルツらが生命記憶の事例としてあげているものの1つに「移植された臓器の記憶」があります。

 

そのエピソードを取り上げてみましょう。

――――

 

グレンダは夫のデビッドを交通事故で失った医師である。事故から3年たって、ハワイ大学のポール・パーシャルの取り計らいで、グレンダとデビッドの心臓を移植された若い男性とが出会うことになった。


待ち合わせの場所である病院のチャペルに約束の時間になっても、その若い男性と付き添いの母親は現れなかった。

 

パーシャルは臓器のドナーの遺族と移植者が出会うことは非常に微妙な問題をはらんでいるので、当日になって若い男性の気が変わったのだと考え、グレンダにもう帰るように告げた。

 

しかし、グレンダは「いや、待った方がいいわ。彼は病院に来ている。彼が30分前に病院に到着したのを感じるのよ。私には夫の存在が感じられる。どうか私と一緒に待ってちょうだい」と冷静に述べた。

 

「デビッドの心臓がここに来ているわ。自分で自分の言っていることを信じることはできないけど、それを感じる。移植者がこの病院にいる」と言って聞かなかった。

 

ちょうどそのとき、ドアが開いて若い男性と母親がチャペルに駆け込んできた。
 

「遅れてすみません。」ひどいスペイン語なまりでその男性は、「30分前に病院に着いていたのですが、チャペルがどこにあるかわからなくって」と言った。


グレンダは挨拶を交わした後、その男性の胸に手を当てて夫の心臓を感じさせてほしいと願い出た。彼女は男性の胸に手を当て、目を閉じ、囁いた。「愛しているわ。万事はcopaceticだね…。」と。


その言葉を耳にした男性の母親が強いスペイン語なまりで「息子は今ではいつもcopaceticという言葉を使うようになったのよ。心臓移植を受ける前まではその言葉を使ったのを一度も聞いていないわ。でも、手術後に初めて彼が私に口にした言葉が"everything is copacetic"だったのよ。スペイン語で知っている言葉ではないわ。」と言う。


グレンダがその話を聞いて目を見開いた。「その言葉は私たちが万事オーケー"everything is okay."という意味の合図でした。私たちが言い争いをして仲直りするときにはいつも"everything is copacetic"と言うようにしていたのです…」

 

――――

シュワルツらは、その他にも殺害された10歳の少女の心臓を移植された8歳の少女が移植後、繰り返しドナーを殺害した男の悪夢を見て叫び声をあげる、夜驚症の事例を紹介しています。

 

少女の証言によって医師と少女の母親が警察に連絡を取り、最終的に容疑者の男が逮捕され、男は容疑事実を認めています。

 

殺害時刻、凶器、場所、男が着ていたもの、彼が殺した少女が彼に言ったこと、など心臓を移植された少女の証言は完全に正確なものでした。


臓器移植は生きている人や、亡くなった人の臓器を一種の“部品”として、患者の身体に移し替える医療技術です。

 

人間を精密な機械にたとえる医療観では、モノや部品にすぎない臓器を移植しても、異物が入ったときに生じる拒絶反応さえ抑えることができれば何らの問題も生じないことになります。


しかし、かつて生きていた人の臓器に、その人の人生の記憶という生命情報が刻み込まれていると考えると、移植された人間の意識に他者の記憶が混入するという事態が起こることになってもおかしくはありません。


このように非局所的な意識を前提とする世界観では、物質そのものにも記憶や情報が入っており、その物質を介して自分以外の人の意識が干渉してくる可能性も指摘できるのです。
 

ならば、自分の頭部を他者の首から下と接続したら、複数の意識が混在することになって、やはりアイデンティティに関する問題が生じることになります。

 

脳=意識だとする物質主義科学の人間観だと、そんなことは「あり得ない」となりますが、脱物質主義科学の観点からは、臓器にも意識や記憶が「ある」と言えます。

 

このように、世界観や生命観、死生観の衝突が頭部移植というテクノロジーにも発生してくるわけで、単にキワモノ&エンタメネタとして看過できないところにまで現代の物質主義科学は到達しようとしているわけです。

 

これは議論の余地大いにありです。皆さまはどのように考えられるでしょうか?

 

 

 

 

巫師麗月チャンネルはこちらから

 

 

 

 

関連記事

 

 

 

 

 

お問い合わせ等はこちらへ

 

 

よろしければ下のバナークリックお願いいたします

 

巫師 麗月のブログ - にほんブログ村

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
にほんブログ村