皆さま

 

四国松山といえば道後温泉が有名ですが、民間信仰(民俗信仰)という観点から見ると、狸信仰をあげることができます。

 

愛媛県には伊予八百八狸の伝説をはじめ、化け狸にまつわる逸話がたくさん残っています。

 

今回は、江戸時代から昭和時代にかけて松山の地を騒がせた美女狸=お袖たぬきに関する伝説の地をご紹介いたします。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

八股榎お袖大明神


所在地:愛媛県松山市二番町4丁目
 

祭神:八股大神、榎大神、お袖大神
 

真言:「ナマクサマンダバサラナンカン」



ここは神仏習合の祠です。

 

松山市の官公庁街が並ぶ中心地で、愛媛県庁の近く、松山市役所前の道路、路面電車の線路を隔てて真正面にあり、松山城の堀端に、赤い鳥居が立ち並んでおり、「八股お袖大明神」と書かれた何本もの幟に囲まれた一角が見えてきます。

 

右手が町山市役所。左手に見える幟が八股大明神

 

毎日、灯明と線香が絶えない松山の狸信仰の中心地。安産・縁結び・商売繁盛・家内安全・学業成就・交通安全など多くの願いを叶えると評判の高いお宮です。

 

鳥居と祠が狭い敷地内にいっぱい建っている。

 

お袖さんの祠。中央にお袖さんの像があり、周りにユーモラスな顔をした狸の焼き物が……。

 

お袖さんが昭和22年頃に戻ってきたという第三の榎。

ご神木として崇敬の対象になっている。

 

 

――――お袖狸伝説

ときは天保元年(1830年)、今の松山城を、勝山城と呼んでいたようです。その勝山の森にすんでいたお袖狸が、ある日、お城のやぐらへ登って、お城下町のかなたこなたと眺めながら、「こんな山の中にばかりいてもつまらない。どこかの町角の、人通りのおおいところへおりて行ってみよう。きれいな人が大ぜい見えるだろう」と思いつきました。
 

そこで、何日間か、引越しの用意をしたお袖さんは、いよいよ山と別れることにして、美しいお姫様に化けました。そして、お城のうら道をとろとろとおりつくしたところの、八股に来ました。
 

その頃、八股には、古い榎が何本も茂っていて、大きな森のようでしたから、お袖さんのすみかには丁度よいところです。その上、前の広い道路を、ひっきりなしに色々な人が通るので、人を見るのにも好都合です。
 

「こんなよいとことはない」
 

お袖さんは八股へおさまってしまいました。そして、この新居が珍しくてなりません。毎日、道路に面してすわり、ゆききの人をながめていました。ずいぶん大ぜい通りますが、その中には、きれいな人、きたない人、わかい人、老いた人、病気らしい人、元気そうな人、色々の人です。
 

ある日、「何か用はないものか、毎日じッとして人々を眺めているだけで、お山よりたいくつでしょうがない」、こんなことを思いながら座っていると、ひとりのおばあさんが目にとまりました、杖にすがって、よぼよぼのおばあさんです。たいくつな時は、今まで思うてもいなかった考えがわくものです。
 

「あのお婆さんが来たら、話しかけてみよう。」
 

じッと待っておりました。近づいてまいりました。声をかけようとした時に、おばあさんが、急に歩みをとめて、苦しみ始めたのです。お腹がうずきだしたのです。
 

お袖狸は、おばあさんの腹のうちがわが、透視できるものですから、その腹の中に、まだこなれずにごろごろしているお餅を見て、
 

「年寄りのくせに大食家だよ。胃袋がはりけそうな、どれどれ」
 

お袖狸は両手をだすと、揉むかっこうをし始めました。
 

冷たい汗をひたいにたらたらと、そして顔色といったら土色になっているおばあさんの目の前が、うすぐらくなっていく時です。これがあの世への旅立ちとでもいうものか、と、考えたりもしていると、榎の茂みから、目には見えぬが、助けの力を感じはじめたのです。
 

お袖狸の目には、おばあさんの胃袋の中のお餅が、両手でもむから二つずつこなれていくのが見えます、そして十のお餅がすっかりこなれてしまった時、おばあさんの目が、しっかりとした視力で、お袖狸の方を、おがむように見ました。
 

胃のうずきのとれて、すっかりよくなったおばあさんは、
 

「あの榎には、佛力があるのにちがいない」
 

榎の木をおがむようにして、さっさとかえってゆきました。
 

翌日、おばあさんが、孫をつれて、榎の木の下へ来ました。妙なことにお線香を立て、おがんでいるのです。
 

お袖狸はうれしくなりました。
 

「仕事ができた。そうだ、困っている人をたすけることだ。」
 

もちろん、おばあさんは、うれしかったことは、だまってはいません。まして御利益のようなものをいただいて、胃痛のなおった命拾いのことです。すぐ、人に話しました。
 

それにお袖狸は、一度の体験がすっかりうれしくもあり、また決心したことでもあり、通行人を透視しては、心配ごと、苦しみごと、精神上のこと、肉体上のこと、何から何まで、神通力でもってすぐなおしてあげたり、妙案を与えたりしました。
 

「八股の榎前を通ると、凡てがよくなる。どうりでお線香があげてある筈じゃわい」
 町の評判になってしまいました。

 

「あれは、八股のお袖さんのおかげじゃ」
 

誰言うとなく、こう言うのです。事実それにまちがいないのですが、それをそう言いだした最初の人もまた明察のきく人だと言わねばなりません。人間にも、こうしたふしぎの知る力が、お袖狸の神通力みたいに、心の奥の、ずっと奥にあるかもしれません。叡智の光とでもいうのでしょうか。
 

ついに、お礼まいりの人がたえなくなり、狸の好物、赤飯、あぶらあげ、ごちそうが供えられるようになりました。
 

お袖狸には、また一つ仕事ができました。たくさん持ってこられた供物を、お友達に分けたり、または、お姫さまに化けて、困っている家へくばったりすることです。おかげで、たのしくいそがしい日をおくるようになりました。もとの古巣である勝山の森へ帰ってみるひまもなく、ただ思い出してはなつかしむだけでした。
 

明治、大正の世もすぎて、昭和に移った頃のことです。
 

松山市では、電車線路が単線では、どうも不便で仕方がなく、複線にする必要がある、という訳で、丁度、八股のあたりの道路をうんとひろげて、ということになりました。
 

困ったことには、そうするというと、お袖狸のすむ榎を切ってしまわねばならず、市の役人も、市の人々も、そのことで大へん心配したのです。けれども、お袖狸のお袖さんにたのんで、ついに切ることになりました。
 

お袖さんはかなしみました。大ぜいの人々と別れるのが残念でたまりませんでした。市の人々も、神さまのように思っていたお袖さんがいなくなった後のことを考えて、困ったと言いあいました。
 

まもなく榎は切りはらわれ、電車がひっきりなしに走るようになりました。
 

すみかをなくしたお袖さんは、どこへすみかを定めようかと、あちらこちら考えました。古巣の勝山へ何十年目かに行ってみましたが、やっぱりすむ気にはなれませんでした。それで南の御幸山へも行ってみましたが、ここもだめでした。
 

「こんどは思い切って、人里はなれたところへすんでみよう」
 

西方、久万の台へ行ってみましたが、ここも人で一ぱいでした。そこでずっとはなれた久万山の奥へ入っていったお袖さんでした。久万山の奥で、今でも八股の榎の家をなつかしんでいることでしょう。

――――


しかし、この伝説以外にも、お袖狸に関する不思議なエピソードが残っています。それも昭和時代に起こった「実話」も含まれています。

 

松山城三の丸の堀端のあさひ隈の地点を八股と呼び、昔その地点に榎の大木があり、お袖さんはその榎を住み家としていたらしいのですが、松山に伊予鉄道の路面電車の複線化工事が決まったときに切り倒されてしまったのです。

 

その後、昭和9年5月4日に、八股榎を現・東石井の喜福寺に遷座式が行われています。

 

ところが、榎の大木が切り倒されたときに工事に携わっていた人たちががつぎからつぎに怪我をしたり、病気になったり不慮の事故が続発するので、これはきっとお袖狸の崇りにちがいないということで、伊予鉄の工事関係者は誰も仕事をしなくなってしまったのです。

 

会社は仕方なく外国人労働者を雇い入れて仕事を進めようとしたのですが、お袖の怒りは日本人も外国人も区別なく遂に手をあげてしまったといいます。
 

この始末を堀之内の連隊営所から見ていた憲兵隊が、「狸の崇りなどとは片腹いたい、日本軍人の名誉と沽券(こけん)にかけても伐り倒して見せよう!」と仕事を買って出たのですが、これもまた木から落ちたり、片腹どころか両腹まで痛み出す兵隊が続出して手を引いてしまいました。

 

打ちつづく不思議な出来事に交通文化の精鋭を誇る伊予鉄道も一時は電車複線の計画を棚上げしようかとさえ危ぶまれる破目になりかけたのです。

 

この時「八股榎大明神講」を主宰する市内唐人町の永野某という熱心なお袖信仰家が現われて、神木を伐採することは畏れがあるからわれわれ講員に委せてくれと申出たといいます。
 

昭和10年、絶世の美人が4~5人越智郡大井駅(現・今治市大西町山之内)で下車し、明堂菩薩の近くでその姿が消えたそうです。それ以来、そこの山桃の木に松山で住み家を失ったお袖さんが、移り住んでいるという風評が四方に流れ飛びました。
 

そこで、今度は明堂菩薩(明堂さん)への参拝人が日一日とふえはじめました。噂は噂を生んで、四国はもとより、中国・九州あたりからの参詣人はまずますふえるばかり、汽車はもちろん、大井の海岸は船でいっぱいになりました。参道はにわかに売店が建ち並ぶ盛況になりました。
 

従来のお堂では狭くなり、急いで増築するということになったのですが、そのためには山桃の木が邪魔になる。どうしたものかと思案いているうちに、お袖さんは八股に1本だけ残っていた第3の榎、つまり元の古巣に帰られたというのです。第二次世界大戦が終わった昭和22年頃にお袖さんはふるさとに戻ってこられたといいます。

 

実話と伝説が入り交じっていて、どうもよく分からないストーリーになっているわけで、私たちも、その逸話が気になり、明堂菩薩まで探訪しに行ったことがあります。

 

明堂菩薩

 

 

今ではひっそりと静まりかえった明堂菩薩のお堂
 
 

倒れかけた鳥居と背後に見える山桃の木。

この木に一時お袖さんが鎮座されていたという。

 

お袖さんのいなくなった明堂菩薩は往年の輝きもなく、倒れかけた鳥居、半ば廃屋化したお堂しかなく、流行神の盛衰を見る思いでした。

 

いかにも狸信仰らしい流行り廃れぶりです。

 

大勢の人々の信仰を集めた明堂菩薩には、神霊反応も過去の痕跡をとどめているだけで、そこに祀られていたお狸さんたちは、なかば自然霊に戻っていました。

 

巫師の視点から見ると、眷属としての狸は扱いづらい部分があります。

 

なぜかというと、気まぐれで心変わりが激しい。

 

化ける霊力はあっても、人をからかったり、驚く様子をみて面白がっているだけで、化かす力に目覚めた霊的狸は、そのうち行者の言うことを聞かなくなり、お供えをたくさん出してくれるところへ簡単に乗り換える傾向があるからです。

 

かなりの浮気者です。

 

とはいうものの、伊予狸にも大ボスがいて強い霊力を持っているものもいます。

 

その話は次の機会に……。



参考文献


(1)    合田正良 伊予路の伝説-狸の巻 新居浜郷土文化研究会 1951
(2)    大澤文夫 「今治地方の伝説集」 今治商工会議所,1992

参考情報源

 

 

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