皆さま
私たちは、四国を拠点にしている個人の巫師ですし、特定の組織に属してもいませんし、教理・教義などとも無関係な存在です。
ですが、私たちの場合、神さまのお使いからメッセージを頂きながら、日常生活と相談活動、祈祷などの仕事に専念する日々を送っています。
今回は、私たちが神さまのお使いとしてとらえているもの、普段は目には見えない隠身の存在から受け取ったメッセージをいくつかお伝えしたいと思います。
よろしくお付き合いくださいませ。
1.疑いの心がどこかにある者は、神に仕える資格などない。お前たちは人間を超えた存在をどう捉えるか?よく考えるがよい。心に裏表のある人間は我の前に座るべからず。お前たちの心は全て見通されている。われわれの前では嘘も隠しも通用しない。われわれを疑う者には心の灯火も消える。我らはここにあり。
2.神とは自然なり。神と自然は不可分のもので、決して分けられない。命あるものにはすべて神が宿っている。自然の要素が一つでも欠けても、また多すぎても生物は生きることができなくなる。
3.何事も無理をすること、逆らうことも不自然である。人間、実際の眼と耳で物事を判断するのは当たり前のことだが、むしろ大切なことは心の眼で物事を見、心の耳で聞こえる音に耳を傾けることである。
4.人間は嬉しいこと、悲しいこと、感情が高ぶったり、落ち込んだとき、海に行ったり、山に入ったり、自然の中に入って行って、気を鎮めたり高ぶらせようとする。これはすでに知らずのうちに神を求めていることの表れである。神との交流とは自然と交流することにほかならない。人間の心の内側にある神性が自然とふれあうことで、感情を穏やかにするはたらきがある。そのことを人間は知らず知らずのうちに行っているのである。
5.霊的な感性とは、別に難行苦行をしなくても、自然と交流し、自然に生きていれば、自然と身につくものである。これは人間が本来持っていた心の働きであり、今の人間は自然に反するようになっているために、なかなか感じることができないだけである。
6.今の人間は当たり前であること、平凡に生きていること、自然でいることを忘れてしまっている。もっと刺激を求め、もっと欲望を満たそうとし、もっと考えようとする。多すぎもせず、少なすぎもせず、平凡であることが一番心の安まる生き方であり、幸福である。ところが、自分を平凡だと思っている人は、今度はその平凡であることに苦痛を覚え、多すぎること、少なすぎる状態を幸せになることだと思いはじめる。
7.雨が降りすぎたとき、人間はうっとうしいと感じる。しかし、雨が降らなかったら、また水不足の不満が出てくる。適度に雨が降る状態こそが恵みを最大限に受け取ることができる状態なのだ。このたとえと、人間の生き方、幸福とは同じ意味を持っている。自然に生きることとは、平凡であることである。神は自然だから、神とともに生きることが一番自然で平凡な人間のあり方である。あくまでも自分の中に神はいると確信することができるようになれば、だれもが神を身近に感じることができるであろう。
このようなメッセージが時折入り、私たちの生き方、普段の行いについて深く反省させられることも多々あります。
その声は男性のような声であるときもあれば、女性の声の時もあります。
時にはきびしく、時には子どもに教え諭すように柔らかく、お言葉が降りるのです。
人のような姿をして現れることもあれば、見たこともないような人以外の存在として感得されることもあります。
私たちは、神のお使いとして認識していますが、本来は姿も形もないものと教えられました。自然の働きが色々なシンボルの形で現れているのだろうと思います。
言葉にしてしまうと、とてもありきたりな内容になってしまいますが、実際にはもっと奥の深い意味が隠されています。その含蓄については特にコメントはしませんし、捉え方も人それぞれでいいと思います。
皆さまの参考になれば幸いに存じます。
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