皆さま

 

モノをたくさん所有し、また消費しながら生活することと「こころの豊かさ」との間には相関関係はありません。人は生まれてくるときも、死んでいくときも裸です。

 

身一つあるだけで、いくらでも豊かなこころ、満たされる感覚、心底から安らぎを覚えることはできます。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

Q.究極的には、心の安寧といったものはどうしたら得られると結論づけられるでしょうか?

 

A.いま社会的に見て一番病んできているなと思うことは、何のために生きているのかという意味が見えないために敗北感とか疎外感を抱えている人が非常に多いことです。


社会全体がばらばらで、まさしく不安な時代だと思うんですけれども。そういった状況の中にあって、乗り越えられていく人とどんどん落ちてしまう人がいると思うのですが、そこの分かれ道になるものが二つあります。
 

一つは、その人の信念、その人にとっての内面的な支えになるものがあるのかどうかですね。逆境に強いという精神的な心のばねの存在ということにもなります。ばねを持っている人は何が起こってもはね返せる。そういう強さを持っているかどうかということです。
 

二つ目は、自分の中に自分の強さというものがまだ確立されていないのであれば、人間を超えたものにも目を向けてみるということです。
 

安寧ということを考えた場合に、穏やかに暮らすとか、あるいは伸び伸びと暮らすとか、そういったような生活が一つのパターンとしては考えられると思います。でも、なるべくそういった日々の心をかき乱すような出来事にとらわれすぎないで、流してしまうという方法があります。
 

たとえば、今日嫌なことがあったとします。今日あった嫌なことは、今日のうちにすべて水に流してしまうという習慣を作ってみることです。寝る前に今日一日を思い出して、一つ一つ流して消し去るという祈りを捧げるのです。そうやって、水に流してしまうという感覚でいると、翌日またすっきりとしていける。

 

そういう習慣づけをやっていけば、どうにかなるさという気持ちにもなってきます。また、何が起こったって、そんなに苦にはならないわけです。


具体的には、これは禊ぎということにもつながるのですが、一日の出来事を一つ一つ思い出し、その出来事を客観的に上の方から眺めて、「今日はこれでおしまい」とイメージで右から左へと流して消してしまいます。場所はどこでやってもかまいません。

 

簡単にできる心の浄化の手順を披露しておきましょう。
 

1.自分の慣れている祝詞を自分の歳の数(数え年)、毎日1回唱える。
 

2.それが終わったら、北を向いて「祓詞」を唱え「今日も一日、ありがとうございました」と二礼する。

 

神道の祓詞 「はらえたまい、きよめたまえ、まもりたまえ、さきわえたまえ」


3.最後に

 

「宵(よい)の明星(よはさくみこと)、夜中の明星(ふつぬしみこと)、明けの明星(ふかつきみこと)、これ日月星(じつげつせい)、三光(さんこう)のおんすめらぎを拝したてまつる」

 

と唱える。

 

この唱え言葉は、「日」は太陽、「月」は月、「星」は天の星であり、これら3つの光こそが『神』として尊いものであり、人間の運命を左右するものであるという信念に基づくものです。

 

また、「生まれた星の下」というように、人間の生死を表すものでもあるので、自分自身のその日の生活、人生の一こまが神の光によって照らされ、幸せになれるように祈りを捧げるときに使います。


とにかく、悪い想念をためると自分の体にも来ますし、メンタルな面でも抑うつ的になってしまい、心身に悪影響を及ぼします。


Q.よく自分のミッション(使命)に気づくことが問題解決につながるということを聞きますが、それはトランスパーソナル心理学と関係することなのですか?


A.自己実現に関する研究の中で自己実現をした人は使命感を持っているとか、スピリチュアルな人は使命感の自覚を持っているというような研究があります。


ただ、使命感というのは、過剰に反応すると空回りするという逆の法則もありまして、「向こう」からお呼びがかからないと、使命感というのはわからないものなのです。振り返ってみて、自分はこういう役割があったなということはあると思いますが、それに気づくというのはかなり難易度が高いと思います。


だから、日々の生活を普通にこなすという中で見えてくるものがあるかもしれません。

 

意気込んで使命感を見つけなければならないと思うと、ますます自分を見失う方向に行く可能性はありますね。使命感が見つかれば「ラッキー」と思うくらいのとらえ方でいいと思います。
 

肩の力を抜くことの方が大切ですね。



Q.日本人のモラルが崩壊しているといわれていますが?
 

A.昔は自分のためだけではなく、もっと公の中の個という意識が強かったのではないでしょうか。たとえば、武士の時代、家や集団のために命を捨てることもありました。でも、それを辛いというよりは名誉なこととする意識が強かったようです。武士の切腹に対しても、現代の私たちは当時の人の意識を正確には理解できないと思います。
 

今では考えられないでしょうが、それくらい人々の意識は変化しています。だから、今の考えからはちょっと理解できないのですが、「個」はなかったのですね。それが戦争に負けて、日本人の意識が大きく変わりました。あれが一つの大きなターニング・ポイントだったのではないでしょうか。


第二次世界大戦で敗戦したことで、戦後、それまでの価値観の全否定の中で、本来残しておくべき公の意識というか、「みんなのための自分」という意識までなくしてしまいました。


個人の尊重と公共の精神のバランス感覚を育てていくことは社会的な存在としての人間になっていくという意味で重要な課題です。

 

では公共の精神をいかにして教えていくのかというあたりが大問題になっているわけで、それは学校教育だけではできない、家庭教育から始まるものなのですね。でも、日本の場合、生活の中で生きているキリスト教やイスラム教のような宗教がありませんからね。


それで、日本でも人との関係の中で、それにとって代わるものを構築しようと、その方向を考えているのではないかと思うんですけれども、ただ、それだけでは十分ではない。

 

特に、生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることはとても重要です。

 

2000年代になってから心の教育ということで、学校では「心のノート」というようなものを使って、スピリチュアルという言葉はまったく使っていないのですが、人間を超えた力といいますか、大いなるもの存在について教えようとしました。

 

さらに、小中学校では2018年度以降、道徳が教科として教えられるように制度も変わりました。

 

道徳が教科化された理由は、いじめ問題の解消や未然防止に資すること、また、先行きの不透明な時代予測の中で、日本人としてのアイデンティティーを持ちつつ、かつ国際社会で高い倫理観を持って生き抜くことのできる日本人の育成を図ることが取り組まれています。


ただ、現状を見ると、これは長い時間をかけて一貫性のある教育を行うことでゆっくりと育まれていくものですから、すぐに結果は出ませんね。

それ以前に、モラル意識の崩壊といいますか、人としてどう生きるべきか分別をわきまえていない大人も多いですね。

それは本来宗教がやるべきものだと思うのですが、既存の宗教自体が、ある意味で変わっていくという努力をしていかないと、なかなか一般に受け入れられにくいでしょう。やはりそれでは庶民には距離感があります。
 

現代の宗教は、その歴史の経緯の中で、たとえば仏教は一部の例外を除いて、いわゆる“葬式仏教”になってしまっていますから、困ったことが起きたからお坊さんに相談に行こうとか、心の悩みを打ち明けに行こうという機能はほとんど果たしていないですからね。
 

神社もその辺はもっと保守的です。

 

初詣とか厄払い、地鎮祭など、割合形式的なもので運営されています。神社を観光資源とするか、あるいは身近な相談事、儀式などで生き残っていく以外にないのではないかと思います。すると、祈りの場ではなくなっていきます。いずれにしても癒しの場、蘇りの場として再生するのはちょっと難しいでしょうね。


だから、本来宗教がやるべきはずの地域に密着した形でコミュニティセンターになるとか、コンサルタントやカウンセラーの役割を果たしていないのです。
 

一部のそういった宗教者は、その辺を考え始めていますけれども、しかし、非常に隔たりが大きくて、なかなかこの流れを変えていくのは困難ではないかなという印象を持ちます。

 

子どもの道徳性の発達は、家族の中にモデルとなるような大人がいること、身近に「鑑」になるような大人の存在があって育まれていくものです。

 

人任せにするのではなくて、私たち自身が意識の転換をしていき、子や孫の世代に「豊かなこころ」を伝えていく努力を続けていくことですね。身をもって示すことです。

 

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