皆さま

 

自分の運命というものは、基本的に自由意志に関わることで命をどのように運ぶかは自分次第です。生まれてきてよかった、生きてきてよかったと感じられるのなら、それに勝る人生はないでしょう。

 

皆さまにとって、今日のこの日に至るまでの人生はどのように総括できるでしょうか。

 

よろしくお付き合いくださいませ。



Q.人格を向上させるために、仏教では煩悩を消滅するといいますが、そうした惑わしや心痛を少しでもなくしていくにはどうしたらいいのでしょうか?

 
A.「徳を積む」ことですね。ありがたいと思われるようなことをするということでしょう。ありがたがられる、あるいは自分の存在価値を認めてもらえるようなことをなすということです。


だれでも、だれかのために役に立つということがうれしいのです、自分のためだけになってしまうと、そこはむさぼりの世界になってしまいますから。

どんな人でも、それをやることで、だれかがうれしい、ありがたいと思ってくれたとか、感謝されたとか、役に立ったと思うと、そのこと自体、精神的な報酬にはなるはずです。

それを性善説といっていいのかもしれませんが、そういう面が人間にはあるのだろうと思います。それをなるべく意識づけて追求していくことだと思うのです。

しかし、この世しかないとか、人生は一回ぽっきり、死んでしまえば何もないといった発想であると、自分勝手な名誉欲に走ったり、恋愛問題でこじれたり、どうしてもネガティブな方向にいってしまいます。

 

そうすると人を押しのけたり、相手をつぶしてでも自分が利益を得たいということになります。そういったときにどこで踏みとどまれるかということで人格が問われるのです。

現世だけで人生をとらえるのか、自分の範囲をどこまで広げて考えられるかということです。昔の日本人的な発想では、自己とか自我でなく、自分の考え方自体が共同体全体の中での自分でした。ですから、そういう共同体的な中に自分の居場所があるということを学ぶといいですね。まず他者とのつながりを考えてみたらいいと思います。

長いスパンでの因果律、長い間かかわってきた見えない力を意識できるかどうかということになのでしょう。

ひところ話題になった成功者がいましたね。その人物は、かなり強引で、「徳を積む」というところを無視してきたというところがありますね。そういう意味では非常に割り切った人でした。でも、結局、見えない大きな力につぶされてしまったようなところがありますね。あれも作用、反作用ですね。何かやるということの裏には必ず反作用もあります。


成功した時点で、“株主資本主義の権化”みたいにならないで、徳を積むようなことをしたり、本当に身銭を切って社会のために何かをやったらよかったかもしれないですね。でも、あの若さでそこまで考えられる人がどれだけいるだろうかとも思いますね。


いってみれば、それも学びなのでしょう。行け行けでやっているときというのは、絶対そんなこと振り返ろうとは思わないのが当然といえば当然です。あそこでガツンとやられて、そこで何か変わったかどうかですね。もしも変わったならば、次があると思うのだけれども。人徳を積むとは、すごく成功したときに内省できるかどうか、「おかげさま」の意識を持てるかどうかということですね。慢心が一番いけません。
 

Q.巫師の力ですごい幸運を手に入れたために、長い目でみたら、逆にその人にとってはよくなかったという例はありますか。

A.それはないです。依頼のあった時点で解決はしていますから。でも、それは本人が望んだ結果しか出していないし、それ以上のことというのは、その時点では出ていないですね。その後、一体どうなったかというところまではフォローはしていませんから、何ともいいにくいのですが…。


ただうれしいことに、逆に、意識の拡張、人格の向上に成功したような相談者はいました。心の持ちようとか、そういうところで以前とはまったく変わったという人はいます。

問題は、その人の性格の癖というか、一時的に軌道修正ができても、また同じ事の繰り返しに陥ってしまって自分で自分を律することがうまくできない方がいらっしゃいます。リバウンドしてしまうパターンです。

 

自分を押し上げていこう、上を目指していこうとする意志と、ただ欲望のままに動いてしまうことは違います。明確な意志と自分がどうなりたいのかというビジョンが明確になっている人は思い通りに進んでいけるようになります。

 

それが絶対にブレない自分の信念の問題になるわけです。


Q.最近、今までなかったような悲惨な事件や忌まわしい出来事が多く発生していますが、これは霊的に解釈できるのでしょうか?


A.モラルの崩壊というようなこともいわれていますけれども、基本的には人の生き方、モデルになるような生き方をしている人が、今の世の中にはなかなか見つからないということですよ。日本人の大きな変化として、やはり個人主義的な考え方が非常に増長してしまって、共同体の意識というものが大きく崩壊してしまっているのです。

だから、結局、自己利益を追求するけれども、他者に対する共感とか、思いやりとかいった、親から子へ伝えるものをしつけとして全然教えられていないし、親の世代自体が既に人間道生きていくべきなのかという規範意識が崩壊していますので、まず社会的な意識が欠落してしまったということ。またスピリチュアリティという概念との関係でいえば、人を愛する気持ちが不足しているということがいえますね。

自己愛はあるのですが、その自己愛も、結局、傷つきたくないという消極的な意味の自己愛でしかすぎない。本当は自己受容というところまでいけば、人を受容することができるということもあるとは思うのですが。自分が受容できていないがゆえに、人を受容することもできないし、相手の立場でものを考えることもできない。

人との結びつきとか、付き合い方、そういったことをきちんと家庭教育の中で教えられていない、学習していないということもありますね。

Q.「愛」というと若い人の恋愛に結びつけやすいのですが、それも自己愛の域を出ていないということでしょうか?


A.そういう愛は、単に性の対象でしかなく、相手を道具として扱っているのです。貪るだけの性愛です。それはセックスに対する見栄、社会に対する見栄で、見栄と交換しているだけです。お金のためというのもあります。経済的な生活の安定のためで、特にそういう理由が大きいようです。あるいは遊び、ゲームという感覚で付き合っているのもあります。

 

ホストとの疑似恋愛に溺れて散財し、借金がかさんで事件に発展してしまう。また、パパ活で詐欺に遭う男性のケースなど枚挙に暇がないわけですけど、所詮見せかけだけの関係なのにハマってしまう人がいますね。虚飾の世界をリアルだと思い込んで依存してしまっているのです。

要するに自分の欲求を満たす道具として相手を見なす、人を物化して見ているのです。だからうまくいかないと、すぐ命を奪ったり、抹殺したりということを平気でしてしまう。

本来の愛は、相手がつらいと思うことをは自分もつらく感じて、相手の気持ちと通じ合っているものです。仮に互いの利益ということを考えるのであれば、二人にとって何がプラスになるのか、二人にとっての利益を追求していくという形の関係性のあり方です。

利他心といいますが、相手の利益を尊重するという考え方にシフトしていけば、それが理想的な関係だということになります。そういうものを目指していくということで、お互いの関係をもっと昇華させるといいですね。

 

やはり意識を広げるということになります。結局、そのような関係の中で、自然に意識は広がっていき、それが人生の修行ともなるのですね。
 

日常生活の中で学ぶことはいっぱいあります。恋愛関係の中で、あるいは結婚生活の中で、人との付き合いの中に学びはたくさんあるわけですから、そこで衝突するとか、対立する、けんかする、そういう経験を通して、そこで学ぶのです。広い意味でそれも生きていくということで、特別に修行と考えなくてもいいと私は思います。

 

 

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