皆さま
神仏からの御利益を賜るための祈りの方法についていろいろな実践法をご紹介していますが、そこには人間の欲望、欲求をどう受け止めるのかという問題が常に関係してきます。
この点について、今回は深く掘り下げて考えてみます。
よろしくお付き合いくださいませ。
Q.ここまで、現世利益の実現の仕方について伺ってきましたけれども、一方であまり神頼みして現世利益ばかりを追い求めて本当にいいのかという思いもありますね。
A.欲望は追い求めればきりがないもので、仏教的な考え方では、本来そのような欲望を捨てることによって安心立命を得るということになります。
しかし来世利益というのもあると思うのです。
今、どう生きるかが来世につながるというところがあります。現世利益を追求すること自体は、生きていく上で必要なことであるなら、それはもう全然問題ありません。ただ、その生き方の中で、とめどもなく欲を出して、あれもこれも求めて、それをすべて手にして来世はどうなるのかということを考え出すとどうでしょうか。今の生き方が来世につながっていくということになります。そこで、では現世のカルマ=行為がどういうふうになるか、という問題が残ります。
来世のことも考えたら、自分の欲望だけをむさぼっているのではなく、欲を満たして得たものを他者と共有化できるのか、社会に還元できるのか、そういうところまで意識が及ぶかどうかだと思います。
昔の商家などでは、大きい神社を作ったり、大きいお寺を寄進したりして、それで「おかげさまで」と感謝の気持ちを表したのです。
現在でもアメリカのお金持ちは寄付行為をしますね。ああいう行為は、自力で成功したというよりは、コミュニティによって支えられているという意識があるからでしょうね。
メジャーリーガーでも、よくボランティアをしたり、相当な金額を寄付したりしていますね。ああいう「捨てる行為」というものが回り回って戻ってくるのです。
だから、自分が手にした財産なら、その何%かを社会に還元するといったことを積極的にやっていったほうが、また回ってくるということにもつながるし、良い循環が起きるのです。
Q.「回ってくる」とはどういうことでしょうか?
A.手にしたものというのは、何によって与えられたかというところですね。それをすべて自力と考えるのか他力がそこに入っていると考えるかです。
眷属とか神のお使いとか目に見えないものの力によってもたらされたものと考えるならば、それは自分のものではない、他力によるものなのです。
仕事の成果でも、どうしても自分の力で成し遂げたと思ってしまいがちです。
最近の流行で、いろいろな業界ですぐ「カリスマ○○」ともてはやす傾向がありますが、本人が他力で成し遂げさせていただいたという気持ちがないと水の泡のようなもので、その成功も長続きしないですね。
そうやって、いい意味で社会還元できれば、現世利益を追い求めることも悪いことではありません。そういう循環、サイクルを考えた上で行動しているかどうかです。
私利私欲だけを追求する行いは一種の心の穢れになり、回り回って自分自身がその結果を受け止めることになります。
Q.人生は「万事塞翁が馬」で、いいこと悪いことがプラス・マイナス・ゼロだという考え方もあるようですが。
A.美人でちやほやされていた人は晩年が不幸になるとか、若いときに成功した人は運を使い果たしてしまうので後半は恵まれないとか、人生の出来事を全体でプラス・マイナス・ゼロと考えれば、そういうふうになってしまいますね。
しかし、人生全体でプラス・マイナス・ゼロになるという考え方は、あまりにも単純化しすぎているように思います。もちろん結果としてプラスマイナスゼロになることもあるでしょうけど。でも、いろんな人生のパターンというのはあるわけで、ずっと不幸のどん底にいるというような境遇の人もいますし、一瞬しかこの世に生きられなかったという人もいます。
しかし、人生にはいいこともたくさんありますし、また、不幸を味わうためだけにこの世に生まれてきたわけでもありません。人生の中で学ばなければいけないことはたくさんあると思います。
プラスになることをたくさん経験していくこと自体が悪だというふうには考えませんから、その学びを糧にして、それをさらにプラスに転じていけるかどうかなんでしょうね。
ただ、プラス・マイナス・ゼロと思ってしまえばそれで楽になることはありますから、自分で自分を納得させるには一つの考え方だと思います。
Q.あなたのお考えは、いたずらに来世に救いを求めるとかあきらめるのではなく、今生きる命を精いっぱい燃やして、なるべくプラスの方向に向けるというところにあるのでしょうか。
A.今ここに生きてあることの感謝ですよ。来世だけを考えしまうと、この世に生まれた意味、生きる意味がなかなかつかみにくくなる。けれども、その先に来世はもちろんあるという考え方です。
だから今、ここにある自分の命を欲望をむさぼるためだけの人生にするのではなくて、常に周りの幸せを願って生きているかが大事なことなのです。
ところがどれだけの人が周りのことをそこまでおもんぱかることができているでしょうか。周りの人との関係性の中で、“見えないもの”によってどう生かされているのか、つまり“見えないもの”とのつながりを常に意識してやっていけるならば、自然とそれが周りにも還元できるはずなのですよ。
たとえば、眷属に見えない力で助けてもらっているのだから、その眷属に感謝する気持ちを込めて、具体的に賽銭箱にお金を置いてきたり神社などに寄進するなどの方法でもいいのです。
Q.願いを叶えていただいた結果得たものを、社会に還元するようなことでも眷属は喜び、なおさらプラスに働いてくださるのでしょうか。
A.そのこと自体で眷属が働くということはないですね。眷属との関係は、「このことについてお願いしますよ」とお願いしたら、そのことについての眷属との契約という問題になります。なぜならば、社会への還元という行為はその人の意識の拡張の度合いという問題ですから。
ただ、眷属も結局は自然霊といいますか、もとあった自然というところから人間の思いが重なって派生しているものですから、社会的なつながりということももちろんあります。だからその人の意識が広がって、見えない世界からいただいているということに気づけば、周りもなお良くなっていくという「善の循環」のようなことはあります。
人の願いを叶えてくれる非人間的な存在というのは、神仏そのものではなくて、神のお使い、眷属といった存在です。
<善と悪>という概念についても、それは人間の歴史の中で思いつき、社会の中で共有されてきたものです。創造もすれば破壊もする自然の営みを観察したり、人間の生存という立場から望ましい-望ましくないと判断したものが善悪です。
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