皆さま

 

 

いわゆる現世利益について、日本の宗教文化ではどのようにとらえられているのかについて考えてみたことはありますか?


 

たとえば、神道は日本独自の宗教であり、神々や自然の霊を崇拝します。神道では、神社で神職や巫女が祭りを行い、人々はその祭りに参加して神々の加護や幸福を得ようとします。神社参拝は家内安全や仕事・学業の成就、病気平癒など、現世における様々な利益を求める手段となっています。


仏教は日本においても広く信仰されており、多くの寺院が存在します。仏教では、現世の利益だけでなく、来世の幸福や浄土への往生を追求することも宗派によっては重視されます。寺院でのお経の聴聞や護摩行などが、現世での幸福や災難からの保護を得る手段とされています。



宗教や信仰体系において、現世利益は人々が安寧や幸福を求める一因となっており、祈りや儀式=加持祈祷がその手段として活用されています。

 

これに対して、人々が現世利益ばかりを追い求めることと、信仰心が深まることとの間にズレや乖離が生じているとの意見もありますが、現世利益に執着することの限界は何でしょうか?

 

まず、現世利益の中には物質的な成功や富を求める要素が含まれます。が、これに過度に執着すると、他の価値や精神的な充足感が犠牲になる可能性があります。それに、物質的な成功が不確かなものであるため、それが唯一の幸福の源であると見なすことには限界があります。

次に、過度な現世利益の追求が他者との調和を欠いたり、他者の利益を無視する結果となることがあります。宗教や信仰は通常、他者への思いやりや共感を大切にします。現世利益を得ることが他者を排除したり、競争のみに焦点を当てたりすると、人間関係が損なわれる可能性が生じます。


さらに、現世利益に焦点を当てた信仰は、一過性の幸福感、刹那の喜びをもたらすことがありますが、それが継続的な幸福や充実感に結びつかない場合があります。よって、人生に持続的な意味や目的を見つけるためには、より深い精神的な次元を探求したり他者への共感が必要となります。

 

もしも、現世利益の信仰が逆境に直面した際に、信仰心が揺らぐことがあります。もしも物質的な成功や幸福が期待通りに実現しない場合、失望や苦悩に直面する可能性があります。



信仰心が深まるプロセスで現世利益を求めることは日本では一般的ですが、それがバランスを欠き、他の価値観や精神的な側面を犠牲にすると、限界が生じる可能性があります。日常的な人間関係や精神的な充足感にも配慮しながら信仰を深めることが、持続的で意味のある信仰生活を築くことが鍵となります。

 

現世利益型の宗教、信仰に対し、精神修養を重んじる宗教、信仰もあります。


現世利益型の宗教においては、良い行いが報われ、悪い行いが罰せられるという報酬と罰の観念が強調されることがあります。ふだんの行いや善行が物質的な報酬に結びつけられることが一般的です。

現世の幸福追求に焦点を当て、宗教的な活動(社寺への参拝、お祓いや祈祷)を通じて生活の質を向上させることを目指します。このとき、成功や幸福は、自分自身の信仰の成果と見なされます。
 

 

これに対し、精神修養を重んじる宗教は、内面的な成長や認識の追求を奨励します。物質的な成功よりも、心の平和や精神的な充実を重要視します。



それに、精神修養を強調する宗教は、瞑想や禅定などの精神的な実践を通じて、内なる平穏や悟りを追求します。物質的な要素よりも、心の静けさが重要視されます。


また、善行と慈悲の実践を通じて他者との調和や共感を重視します。物質的な報酬よりも、他者への奉仕や慈悲のこころが精神的な成長として捉えられます。



さらに、精神修養を重んじる宗教では、輪廻や解脱といったサイクルを通じて、物質的な世界の束縛から解放され、真実の自己を追求することが目指されます。


 

霊性の概念は、個人のこころの安寧、精神的な満足感を得ることに価値を置きますから、物質的、経済的満足感のみに執着していくことで、逆に「こころ貧しき人」になってしまうのは霊性とは逆の道筋を辿ることを意味します。

 

 

もちろん、生活の安定や成功を祈願することは人が生きていく上で大切なことですから生存欲求の充足手段という意味においては自然なことだと言えます。しかし、それ自体が目的になってしまうのは際限なき欲望の増幅につながるのではありませんか?

 

 

つまり、祈願と感謝のこころ、努力と親和のこころを自分の中のぶれない軸として確立していけば、生活の手段が目的化してしまい、いつまで経っても決して満たされない状態から脱却していけるようになるのです。

 

 

たとえば、祈る場合、最初は感謝から始まるのが第一歩です。何もないのに感謝しろといわれるのが一番難しいのですが、とにかく「今日一日、無事に過ごせたこと」への感謝から始めます。

 

いまここに自分が生きて「ある」こと自体が感謝すべきことです。


でも、最近は、生きていることが当たり前のようにとらえている人が多いのです。

 

生きていることへの感謝の気持ちが欠落しているのです。

 

「自分のおかげで生きている」という発想だと少し問題が出てくるのではないかと思います。自分を「宇宙の一員だ」と思えるくらいになれば感謝の範囲もぐっと広がってくきます。


 

このブログで展開している主張の一つに「自己祈祷」ができるようになることを挙げることができます。

 

 

ここで目指しているものは、自分で自分のことが祈祷できる状態になる。つまり、それが信念の問題なのです。信念を持って、ある意味、自分の思いを一つに集中する時間を持つとか、祈る時間を持つとか。それは先祖供養でも、神棚の前に座る、何でもいいのです。

そういう習慣を持つようになっていくということ。それから、自分の中のネガティブな感情を祓い清めるという習慣、感情浄化が自己祈祷になります。

 

それができるかどうかです。とても単純なことです。

 

 

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