皆さま

 

信仰とは何か?何故、人は神さまを求め、頼るのか、知りたがるのか。

 

難しく考えれば、いつまで経っても答えは出ません。

 

今回は、私自身の経験から言えることをお話しします。

 

神さまから伝えられたメッセージをまとめると

 

 

・人間として生きなさい。

・人は神にはなれない。

・綺麗事を口にする事も無意味である。

・嘘偽りは自分を苦しめる事になる。

・自分を押し殺してまで別の生き方や別人になる必要もない。

・逃げたくても逃げられないものは自分であり、消すこともできず、捨てることもできないのが自分である。

 


 

これが私に入ってきた神籤です。

 

私もこの世界に入ってから色々な修行を重ねてきました。

 

修行は自分の為にある行いです。

 

滝行、断食、寝ずの行、山歩き行…。

 

人間は寝溜め、食い溜めは出来ません。

 

寝ない、食べない、食べられないという状況は病か貧困か、あるいは死に臨んでいるときに経験することです。

 

出来ない事を無理にするのが修行です。

 

仮に修行をして何かを得たとするなら、それは忍耐力だけです。激やせしました。

 

 

 

私が得た言葉は

 

人は人間らしく生きなさい。

 

学びや修行は生き抜く事そのものであり、試行錯誤しながら経験を積みなさい。

 

今生で後悔や未練を残さない事を身上としなさい。

 

 

 

とても単純なことです。

 

難しい理論など不要です。

 

 

 

生きている間に人間は過ちや罪は起こすものです。

 

自分が間違っていた事に気づけば罪は消滅します。

 

無理な反省をするより自分の過ちに気づけば良いのです。

 

同じ過ちを繰り返している間は、自分のことすら分からないままです。

 

 

 

 

現世で一番厳しくて辛い事は生きる事です。

 

信仰とは、あくまでも神 対 自分の個人的な関係です。

 

みなで一緒に集まって拝むの本当の信仰だとは思いません。

 

他人は関係ないからです。

 

他人と自分を比べる必要もありません。

 

 

 

 

まず大切にするものは、自分自身である。

 

次に自分が大切な大事な者は誰なのか?自分にとって大事な者なら守りなさい。

 

生き抜く為に自分のこころの奥底にある神性に気づきなさい。

 

先祖がいたから自分が存在する事を思い出しなさい。

 

墓参りや仏壇、そして先祖供養は自分の存在を知る為と子供を幸せに導く行いである。

 

 

 

信仰は神 対 自分ですから、もし嫌なら止めればいいし、どうするかも自由なのです。

 

もし神さまと縁をつなぎたければ、深い絆を作る。

 

イヤだと感じたら、絶縁することもできます。

 

信仰は誰かに言われてするものではありません。

 

強制されてする信仰は信仰とは言いません。

 

我慢しながら行う信仰は、もはや信仰ではなく「苦行」になります。

 

 

 

 

繰り返しますが、修行で得るものは忍耐だけです。

 

これに対し、悟りとは「楽しい、嬉しい、幸せだ、生きていて良かった、ありがとう。」と心底から思えた瞬間なのです。

 

その意味で、私たちは死ぬまでに何度でも悟りを得ることができます。

 

逆に、修行(苦行)で悟りは得られません。

 

私は過去に実際の苦行を経験しています。その中で神さまからのメッセージを何度か得ました。

 

説明をすれば長くなりますので簡単に話します。

 

断食や寝ずの行、「歩き行者」をしていて道ばたに倒れた時、声が聞こえたのです。

 

 

「お前は何故、そうまでして自分を虐めるのか。傷付けるのか。お前の魂には神が宿っている。人間の魂には神が宿っている。お前が苦しめば神も苦しい。自分を大切にしなさい。ただし、お前は罪を償う為に霊力を与えた人間である。罪を持つ人間だけが霊力を持っている。罪を償うまで現世での幸せは捨てなさい。人間の魂に終わりはない。肉体は借り物だという事を忘れないようにしなさい。」

 

 

と言われて目が覚めました。

 

肉体は神さまからの借り物です。

 

自分を痛め付けたり傷付ける行為は、自分の内に宿る神さまを傷付けるのと同じ事だと悟りました。

 

そして現世で霊力を持つ人間は、前世で最も大罪を犯した者だと知りました。

 

ですから、霊能者なんて決して立派な存在ではありません。

 

むしろ普通の人の方が前世で神仏に縁がある人が多いと思います。

 

神さまは自分の内側に存在します。

 

ではなぜ信仰をするのか。

 

それは自分に力をつける為です。

 

生きて行く上で普段は自覚できない意識の力を強める為にです。

 

それが神力なのです。

 

神さまを否定せず自分の内側に存在を感じる事。

 

自分の存在や家族の存在を示す為、子や子孫を守り幸福に導く為に先祖供養をする。

 

もし先祖供養や墓参りが無理なら心の中で毎日、感謝の気持ちを伝えること。

 

自分の血の中には先祖が住んでいます。濁った血もあります。それが先祖因縁です。

 

医師が遺伝的な病気だと言うなら、私の立場から見ても同じ診断を下します。

 

先祖因縁があるから治療しましょうと。

 

今、置かれている状況が良いか悪いか、全て家族や後々の子孫に繋がる為、「大掃除」をしているのです。

 

苦しく辛い事を後に残さないためにも。

 

それだけではなく自分自身も、まず幸福の道に乗る事を祈念して下さい。

自分の力が身につかないならば、家族も守れないのです。

信仰とは、まず自分の内なる力をつけ幸せを感じ取る。そして、それを家族に与えることです。

嫌々すれば幸せなど逃げます。

男性の中には、家族を大事に出来ないから信仰など捨てなさいと言う人もいます。

 

結婚生活が地獄だ、家族が重荷だと思うのなら、それ以上の苦しみを妻や子に与えているからです。

信仰や神仏を必要とするのは間違いだと信じているのです。

でも、これだけは言っておきます。

家族を守れない人に神さまは力を貸しません。

既婚の男性に言っておきたいことは、自分の連れ合いは、あなたの分身を生んでくれた、かけがえのない存在だということです。

そのことに感謝するのが信仰にも繋がります。



ここまでのおさらいをしましましょう。

信仰の基本とは、まず自分に感謝すること。

家族や他人に誉められなくても関係ありません。

自分で自分を誉める。

次に愛する者に感謝する。

自然に感謝する。

空、月、星、太陽、風、木、花、川、海に感謝する。

辛い時は自然を友だちだと思い、気持ちを分かってもらう。

心の中で愚痴や不満を聞いてもらう。

自然も生きています。

そして、神棚は人間の拠り所です。全て受け取ってくれます。

ご神前で愚痴や不満ばかり言ったらバチが当たるなどということはありません。

人間、たまには神さまに対して否定的になる時もあります。

神棚の前に座りたくない時もあります。

だからと言って信仰から離れているのではありません。

喜怒哀楽があるのは生きている証拠です。

全ての煩悩を捨てる事など不可能です。

「無」になる時は死ぬ瞬間です。

生きているときに人間は「無」にはなれません。

瞑想しても生身の人間が「無」になる事はできないのです。

かりに滝行をしていて「無」になるなら立つこともできなくなります。

祝詞やお経を唱えているときに「無」になるはずはないからです。

雑念があるのも人間だからです。

何も考えず、柏手を打つだけで信仰を体現したことになります。

自分の守護神様を知っているなら名前を唱えて柏手を打つ。

守護神様は何も語らなくても全て見抜いています。必ず救いがあります。

願をかけるのも信仰。

愚痴や不満を聞いてもらうのも信仰のうちです。

 

麗月 謹上再拝

 

 

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