皆さま
人の心には明るい面と暗い面があります。明るい心は嬉しい、楽しいと感じる自分。暗い心は怒りや憎しみ、悲しみに満ちあふれている自分。
生きている限り、私たちは喜怒哀楽の感情を持ちます。それ自体は避けられないことなのですが、人を恨んだり、憎んだりする傾向が強くなると、そのような人はやがて「邪鬼」(邪気)を自分の心の中に住まわせるようになっていきます。
人の想いは、それが負の感情の塊になってくると、自分で魔物を作り出すようになるのです。
憎しみや怒りを相手に直接ぶつけることもありますが、人知れず密かに「儀式」を行う人々もいます。
もし呪い釘が打たれているような場所に行っても大丈夫なの?と訊かれたら、私は「可哀想な人がいるのだな。悲しい人がいるのだな。」早く神様に助けてもらえるようにと心の中で思い、その場を立ち去ります。
人に呪いをかける行為は、本人の作り出した邪鬼・悪鬼=辛さ、不幸の表れです。そういった場所にはマイナスのエネルギーが残っています。
だから、そういう物を見ても波長や感情を合わせないようにすることが肝心です。
遊び半分で行かない事、自分は関係ないの気持ちでいること。釘や釘を打っている木を触らない事。
どうしてもイヤなものが目に焼き付いたり、頭から離れないのなら自宅から近い神社やお寺にお参りする事です。
信仰している神社、お寺があれば、そこに行くのもいいですし、それが難しければ自宅でお頼みして手を合わせる事です。お仏壇があればご先祖様に手を合わせるようにして下さい。
どちらにしても、あなたには関係のない事です。呪い釘を見たから祟られるということはありえません。触らぬ神に祟りなしです。
面白がって行く人は少なからず影響を受けることを覚悟した上で行ってください。呪いをかける人は面白半分ではしませんから。
以前、私は呪い釘などを抜く仕事を経験しています。神聖な場所なのにご神木に釘だらけ。本当に何本も刺さっている所もありました。
私はそれらの釘を見て、逆に哀れみを感じました。釘の数、深さがこの人の不幸の強さを表しているのだと...。
どんな理由があるにしても人を呪う事は自分の墓も用意しなければならないほど破壊的な行いです。神社の絵馬に悪口を書くような行為も同じ事です。
人を呪うより、自分を不幸にしている原因を解決する方法を見つけた方がよほど楽なのです。少しだけ、心のスイッチを切り替えるだけでできるのです。自分の中に潜んでいる邪鬼を遠ざけて、前向きに生きていく道を探してみてはいかがでしょうか。
麗月 謹上再拝
註.人の想念(感情を伴ったイメージ)の中でも怒り、憎しみ、悲嘆はときとしてオニ、物の怪、妖怪などの姿として感じられることがあります。視覚的に見えることもあれば、声が聞こえる、身体が重くなる、気分が悪くなるなどの反応が生じることもあります。昔から伝わる魔物の類は、元はといえば人間が自分で作り上げた想念の塊です。それが寺社など特定の場所に蓄積されて生きている人に影響を及ぼすようになるわけです。「気」や「念」は本人が自覚しないうちに他者に影響を及ぼす性質を持っているので、まずは自分の中の邪気邪念を祓い清める必要があります。また、そのような想念の塊に影響を受けないようにする自己祈祷の方法もあります。
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