第三のビールで乾杯ブログ
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可能性と不可能性に関するひとつの制限が無から生じてきたように見える。重要なのは、特定の組合せは可能にして別の組合せは禁止するような統語法がくりだされたということである。ランタム性と記憶では、ラカンの記号化のポイントとは何だろうか。セミネール第2巻と盗まれた手紙についてのセミネールの後記におけるラカンの関心は、あらかじめあるリアリティには含まれない統語法を持った、ひとつの象徴的システム、規則や法則の集合、を構築することにある。したがって、結果として生じる可能性と不可能性は、象徴の行列が構築される仕方から派生するものと見ることができる。すなわち、問題となっている出来事が記号化される仕方から派生するものと見ることができる。この特殊な例においては、あらかじめなかった法則、統語的法則、を生じさせるのは、記号化の事実ではなく、むしろ記号化の方法である。ラカンがここで採用している記号化の方法は、それほど単純に想像しうるものでは決してない。そして、それよりはるかに単純な方法によっては、いかなる統語法をも生じさせることはできない。

看護師は疑問に思いつつも指示に従って配薬しようとしたが、薬剤師が不審に思い、医師に確認したら間違いであることが判明し事なきをえた。医師も人間ですから処方を間違うこともあります。ですから薬剤師のチェックが必要なのです。一方で看護師も毎日のように医師の処方を見ていれば、その知識は十分に身に付くはずです。患者の状態の変化を-番よく知っているのは看護師で、その状態を改善するために、どのような処置がなされたかも見ているはずです。したがって多くの症例を見ながら経験的な知識が身に付くのです。この知識を活用しない手はありません。実際処方にミスがあったとしたら、これに真っ先に気がつくのは看護師でしょう。また医師よりも先に処置の必要性を感じるのも看護師です。つまり看護師が知識の中心にいるほうが効率的なのです。しかし、ここで問題となるのは、医師から受けた指示に対して看護師が確認することを「口を挟むな」とタブー視されている病院が今でもあることです。あるいは、看護師自らがそのような雰囲気をつくってしまっている病院も現実に多いことです。
体験することの大切さ

自然思考の妥当性や有用性を評価し自然思考に適応的に対応することによって感情は肯定的な方向に変化する。要約すると、自然思考は、より明確な一連の思考と同時に生じるが、それは意識的な熟考に基づくものではなく、自然発生的で無意識的な事象である。ふだん我々の注意は、自然思考よりもそれと結びついた感情の方に向きやすいが、少し練習すれば自然思考自体にも、気づくことができるようになる。個人的な悩みや問題にかかわる自然思考は、悩みや問題の意味内容に応じて、ある特定の感情と結びついている。自然思考は言葉として、またはイメージとして、あるいはその両方の形をとって生じるが、たいていの場合、短くて素早い。速記のような形で生じることもある。我々はふだん、大して深く考えずに、自然思考を真実であるかのように、そのまま受け止めてしまいがちである。しかし、より適応的なやり方を通じて、自動思考を固定し、それに対応することによって、感情は肯定的な方向に変化する。自然思考について、患者に説明する自然思考について患者に説明する場合、患者自身の体験を例として活用するのが望ましい。