可能性と不可能性 | 第三のビールで乾杯ブログ
可能性と不可能性に関するひとつの制限が無から生じてきたように見える。重要なのは、特定の組合せは可能にして別の組合せは禁止するような統語法がくりだされたということである。ランタム性と記憶では、ラカンの記号化のポイントとは何だろうか。セミネール第2巻と盗まれた手紙についてのセミネールの後記におけるラカンの関心は、あらかじめあるリアリティには含まれない統語法を持った、ひとつの象徴的システム、規則や法則の集合、を構築することにある。したがって、結果として生じる可能性と不可能性は、象徴の行列が構築される仕方から派生するものと見ることができる。すなわち、問題となっている出来事が記号化される仕方から派生するものと見ることができる。この特殊な例においては、あらかじめなかった法則、統語的法則、を生じさせるのは、記号化の事実ではなく、むしろ記号化の方法である。ラカンがここで採用している記号化の方法は、それほど単純に想像しうるものでは決してない。そして、それよりはるかに単純な方法によっては、いかなる統語法をも生じさせることはできない。