さて、前回の③の続きです。
以前は×であったことが、しくみ(人間の社会の約束ごと)が変われば〇になる。これが、文系科目の特徴であること。
そういう点では、歴史という科目も、内容がかわりうる、昨日まで間違いだったものが明日からは正解になることを運命づけられているといえること。
というところまで書きました。
例をあげれば、地図記号とかもそうですが、国語でも、少しずつ単語の意味が変わっていったりはする。英語もそう。
歴史が文系科目である以上、学ぶ内容は「真実」「事実」ではなく、「その時学ぶ価値のあること」になるのです。
ただ、(これは今後の伏線として書いておくのですが、)
昔に比べれば文系科目はより普遍的にはなっている
と思います。
それは、人間社会が発達したから。
たとえば江戸時代などは身分制度とかがありましたから、
そこでの文系科目の中身は身分制度を前提としたものになります。
普遍性としてはどうしてもおかしくなる。
極端な話、奴隷制度が正しい、とされていたころの法律は、学んでも直接には意味がないでしょう。
しかし、今は基本的人権とか自由や平等といった価値観がかなりしっかりしてきています(男女平等などどこまで実現されているかは別として、理想としては)。
たとえば平等の概念がひっくり返って「不平等の方が正しい」ということにはおそらくならないと思う。
であれば、そうした普遍性がある程度しっかりした上で築かれている法律や経済、社会のしくみというのは、そんなに大きく変わる可能性は低くなる。
100年前と現在の100年間と、現在から100年後の100年間なら、
後者のほうが、ある程度は変化が少ない、つまり、そのまま通じる可能性が高い。
さて、話をもどします。
文系科目、という以外に、別の観点から見ても、歴史という科目は、非常に内容があやしげになりがちと言ってもいいと思います。
いろいろある社会科の科目の中で、
歴史は「王道」
というイメージがあります。
一番幅をきかせているというか。
けれど、地理、歴史、公民と分けると、
歴史が一番データがいい加減になる可能性が高い。
たとえば地理で、コメの収穫量とかは、正確なデータがでます。
なにせ、今のことですから。
それぞれの農産物の生産量の多い県がどこか、これは間違いが起こりようがない。
公民でも、制度上の大きな変化(先ほどの裁判のしくみなど)があれば、
内容上はかわりますが、その代わり一度起こればそれはそれで、
「これからはこうですよ」とはっきりしている。
また、過去の制度でも、「以前はこうだった」という知識としては間違いではない。
ところが歴史というのは過去のことで、なかなか確かめようがない。
ほぼ確からしいとしかいいようがない。
だから、私の頃に習った有名な「士農工商」は、いったいあれはなんだったのか、ということになる。
公民の「かつての裁判制度はこうだった」という知識ですらなく、
「過去にはこう習った」という思い出話でしかない。
そうなると、
「士農工商はなかったというが、本当にそうか?またしばらくしたら、『やっぱり士農工商はあった』という話にならないか」
と疑ってしまいたくなります。
あくまで、習った時代の、歴史に対する考え方でしかなくなってしまう。
それでは、過去の時代の勉強をしているのか、今の(過去に対する)考え方や見方を勉強しているのか、わからなくなる。
あまり書きたくないのですが、非常に切実な例としては、今のウクライナの問題。
ロシアはあくまで、
「ウクライナのネオナチから市民を守る」
「ロシア軍は一般市民や建物は攻撃などしていない」
と主張しています。
そうした主張と矛盾する映像が提出されても、「フェイクだ」と一蹴。
現在、リアルタイムですらこういう状況です。
もしこの戦争がなんらかの程度でロシアに有利な形で終了したとします。
そうすると、少なくともロシア国内の歴史書・教科書には、
上記の主張は「真実」「歴史的事実」として記載されるわけです。
そのまま20年、50年、100年たったとき、もはや物理的な検証に限界が出てくると(時間が過ぎれば過ぎるほど、当然そうなります)、それは本当に歴史的事実、ということになってしまう。
「2022年に端を発した戦争は、当時のウクライナ国内のネオナチに対してロシアが果敢に介入し、解決した」という「事実」が確定されるわけです。
それに対して、今現在でもロシアに批判的でない国々も多いわけですから、世界規模での歴史書になると、もしかしたら「2022年の戦争に対しては、ロシアが間違っているとはいえないという意見もあり、さまざまな見方がある」とか「ネオナチが実際にいたという意見もある」という記載が出る可能性があるわけです。
また、実は王道の歴史より、
実際の役立ち度としても地理や公民の方が上ではないか
と思ってしまいます。
一番役立つのは公民でしょう。
何度も書きますが、裁判制度とか、国会のしくみとかは、小中学校で習ったことがそのまま社会常識として生きます。
なにかトラブルがあったら弁護士さんに相談すればいいのだな、とみんな知っている。
逆に、小中学で習わなかったら、そういうことも知らずに社会にでることになる。これは恐ろしいことです。
公民は絶対に習わないといけない。
地理も、役に立ちます。
卑近な例ですが、旅行にいったときにそこの名物がなにかということが見当がつく。また、その地域の気候も地理でならうのです。
現実の生活に密着しています。
それに比べると、歴史はねえ・・・
旅行に行った時のトリビアとしては役に立ちますが、そのレベルです。
私としては、それよりもその土地の名物が何かを知っておいたほうが、お土産を買うときにも実際的です。
* * *
さて、③の後半をやります。
歴史を学ぶ意義について。 こちらは簡単にやります。
ここまであいまいにしてきたのですが、
どうして私は物語文(小説)のときのように、
「なぜ歴史を勉強するのか」とか「歴史を勉強するとなんの役に立つのか」
という問いではなく「歴史とはなにか」という問い
を立ててしまったでしょう。
我ながらここまできて不思議に思ったのです。
しかし、これこそが、歴史の本質なのです。
つまり、
「何を歴史とするか」といえば、
「意味がある」「役に立つ」というような観点から歴史を決めるに違いない
のです。
社会に役に立たないような単なる事実の羅列は歴史ではないはずです。
たとえば、
「2011年3月11日14時46分に〇〇市の〇〇病院の〇〇号室で生まれた子供の名前」
というものは、事実として特定はできるでしょうが、それは関係者以外にとって覚える重要性のないことです。
そうではなくて、「3.11」といえば、忘れてならないのは東日本大震災であるわけです。
だから、「歴史とはなにか」という問いに答えられれば、
自然とそのルールによって記述される歴史は「学ぶ意味のあること」になるのです。
つまり、「なぜ歴史を勉強するのか」=「歴史とはなにか」であり、
きちんとした歴史とは、勉強する価値のあること、ということになるのです。
<続く>