やれやれ、ようやく④にこれました。
「 ④ 私なりに考えだした『歴史とはなにか』
に対する答えを書いてみたいと思います。
ただ、最終的に(今の時点で)たどり着いた結論が
非常に複雑なものになってしまったので、
書き方としては、最初の発想から始めて、その後、
私自身の自問自答の過程をたどっていくやり方を
とっていこうと思います。 」
よろしくお願いします。
私なりの「歴史とはなにか」について、
実際には年表説のところで書いた素朴な疑問から出発しました。
「なぜ大悪党のヒトラーの名前が歴史に残って、
その辺の道路のごみ拾いをしているボランティアの名前は残らないのか」
ヒトラーの方はともかく、ボランティアの人の名前が残らない方をまず考えました。
結論・・・というほど深く考えるまでもなく、
ごみ拾いというボランティア行為は「新しいことではないから」とすぐ考えつきました。
「新しいことをする」、
これが大事なのではないか
と思ったのです。
あたりまえと言えばあたりまえですね。
人間はまねができる生き物です。ある意味、まねが簡単にできる。
逆に言えば、一番最初に何かを思いついたり、発明したりするのが難しい。
最初の一歩さえ与えられれば、それを続けていけばいいだけ。
であれば、最初が一番大事、ということになる。
最初ができれば、そこから可能性が広がるわけです。
そう、可能性。
この「可能性」という言葉をひらめいたとき、私なりの歴史の答えの原形ができました。
「歴史とは、人類が可能性をどのように広げてきたかを記録したもの」
となりました!
ここで、よりわかりやすくという意味で、別の例をだします。
日本史とか世界史、というと大きすぎるので、「飛行機の歴史」としてみたら、どうなるでしょう。
飛行機の歴史で、何が大事になるでしょう?
飛行機の大型化とか、高速化とかいろいろあるのでしょう。
人によって意見の違いもあると思います。
しかし、
特に大事なこととして疑いないのは、ライト兄弟の初飛行
ではないでしょうか。
何年に人を100人以上乗せて飛べるようになったとか、
何年にマッハを超えられるようになったとか、
そんなことを覚えるよりは、
というよりそれらを大事なこととしてもし年表に書き込むのなら、
当然、ライト兄弟の初飛行は年表にのせないとおかしいでしょう。
なぜなら、飛行機の歴史にとっては、
飛ぶかどうかが大事なことであって、
規模とか速度は、その延長線上に見えてくるもの
だからです。
抽象的にいえば、量的変化ではなく、質的変化が重要だ、
ということになると思います。
飛行機という乗り物の可能性を広げてきた重大事件はなんだったのか。
その視点が定まれば、飛行機の歴史の年表に記す価値があることがなんだったのか、かなりシンプルに決まってくる感じがします。
普通の歴史も、それと同様に考えればいいのではないか、となるわけです。
ヒトラーとボランティアのことはどうか?
これも、飛行機の歴史ならどうか、と考えてやればいい。
飛行機の歴史で、無事に、無難に予定通り飛んだ記録と、
事故の記録は、どちらが年表にのせる価値があるか。
望ましい望ましくない、善悪という判断基準なら、予定通りの飛行のほうがよいことに決まっています。
しかし、事故の記録というのは、忘れてはならない記録です。
こんな失敗があった、こういう事故が起こりえる・・・
それもまた、
「二度と起こしてはならない」という意味では、そのあとの可能性に貢献する
ものです。
事故を無視していたら、また同じ事故を起こしかねない。
それに対して、無難な飛行の記録というのは、最初の一回は別として、
以後は過去と同じことをくり返しているだけであり
(もちろんそのように安全に運航できるよう努力されている整備士やパイロットなどスタッフの方の努力には感謝と敬意を表しますが)、
その事実を表面的に知っただけでは将来の可能性を広げることにはつながりにくい。
日本航空さんを例に出して申し訳ないですが、
もし「日本航空の歴史」という本があるとして、その年表が、
「〇〇年〇月〇日、成田―ホノルル間のジャンボが飛行時間〇〇時間で無事に飛行」とかばかり書いてあって、
御巣鷹山の事故について「社史に残す価値なし」と判断して何も記載がなかったら、「それはおかしい」ということになるはずです。
また、ボランティアでも、一般的なボランティアの名前を記載することは歴史にはなりません。
しかし、ウイキペディアによると、日本のボランティア元年は阪神・淡路大震災の年といわれているとのこと。
そこから、ボランティアというものがどのように生まれ、発展し、広がっていったのかという形で「ボランティアの歴史」ということを記載することはできそうです。
さて、普通の歴史に戻りましょう。
歴史とは、可能性の記録である。これを、「可能性説」と呼ぶことにします。
ネーミングとしては今までの中で一番語呂が悪い感じがしますが、しかたない
(人類がどこまで限界を突破したか、という意味で語呂としては「限界説」というのも考えましたが、誤解されそうなのでボツ)。
ただここで、可能性の中身を考える必要が出てきました。
禅問答のようになっていきますが、では、可能性とはどんな基準で判断するのか。
「新しいこと、今までになかったことが歴史として記載する価値基準」
とはいったものの、
では、私がイワシの刺身とカスタードクリームとイカの塩辛をまぜてメロンソーダに入れたものを、「イワシクリームソーダ」と名付けて売り出したとします。
「これは人類で初めてやったことだ!」
として、歴史にのるでしょうか。
・・・あまりにもばかばかしい例えなので、さすがにその答えはすぐわかりますが、
では最近あったタピオカティーブームはどうなのか?
スイーツの歴史にはのるかもしれないが、普通の歴史にはのせる価値はあるのか?
飛行機ならば「機械で人が飛ぶ」ということだし、スイーツならデザートなので、
対象がはっきりしています。だから、何が新しいかもわかりやすい。
それに対して、普通の歴史とは、何を対象にしているのか?
結論から言えば、現代においては、
「全人類の平和と幸福の実現」
などという道徳的なものになるというのが、私が直観的に思いついた答えです。
全人類が幸福になるために大事であったこと
(そしてその目標に向かって努力する際に参考になること)は何か。
そういう観点から見て、どんなことが過去に新しく試みられ、何が成功し何が失敗したのか。
それを歴史として記録していくのです。
今後は、この「全人類が云々・・・」という価値基準も含めて、可能性説と呼ぶことにします。
長くなってきたので、いったん区切ります。
<続く>