私は前回、
「歴史とは、人類の可能性をどのように広げてきたかを記録したもの」
であり、その可能性の判断基準については、
「 『(現代においては、)全人類の平和と幸福の実現』
というような道徳的なものになる 」
と書きました。特に、「現代においては」というのはどういうことか。
これをまた、例をあげて説明します。
一番わかりやすいと思うのは、絶対王政と呼ばれる、フランスのブルボン朝。
もし、「朕は国家なり」という言葉で有名なルイ14世が「フランス史」(あるいはもしかしたら「世界史」すらも)という本を作ったら、どうなるか。
必ずや、ブルボン家がどう始まってどう発展していった、という記録が主になるでしょう。
逆に言えば、すべての過去の出来事は、「ブルボン家の平和・幸福・繁栄にとって何が重要であったか」という視点から取捨選択されます。
そこにはフランス市民の暮らしのレベルであるとか治安の状態とか、フランスの人口がどうなっていったかとかいうことは、意味がないのでのせない、ということになる。
それよりはベルサイユ宮殿がどのくらい大きくなっていったかの方が大事。
世界史においても、ブルボン朝にとって大事でないものはすべてカット。侵略してフランスの領土になった土地については、フランス領になる前の状態は少しくらいは記載するでしょうが、他は特に記録する価値なし、ということになるでしょう。
だって目的が、「今後ブルボン朝が発展していくための資料」なのですから。
そして、もしブルボン家が世界征服をしていたら、歴史の教科書はそういう内容になっていたはずです。
そんな教科書はブルボン家に関係する人以外誰も面白いとは思わないでしょうが・・・
これはある意味、仕方のないことなのかもしれません。
「歴史とはなにか(5.5)」あたりに書きましたが、
歴史が文系科目である以上、学ぶ内容は「真実」「事実」ではなく、「その時学ぶ価値のあること」なので、中身が変わりうる
そして、教科書にのせる内容を決めるのは「えらい人」(なんと表現すれば適当なのかわからないので、こういう書き方にしました。支配的、というだけでもなくて、立派な人、学識のある人という意味も入れてもよいと思います)の側なので、「えらい人」の価値基準で中身が決まるわけです。
もっとも、ここは誤解しやすいところですが、歴史が直接「えらい人」にとって都合のよい中身になるとは限りません。正確に言えば、「えらい人」が大事にする価値観にそって中身が決まる、ということです。
「えらい人」が汚職とか悪いことをしていても、立派な価値観をもっていれば、その汚職を歴史に記録することを認めるかもしれません。
実際には今の日本はたぶん、政治家や文部省の方が、
「歴史学者さんの判断を尊重しよう」
という価値判断のもとに(これも立派な価値判断ではあります)歴史学者さんに歴史の価値判断を全面的に任せ、歴史学者さんが「これが重要な出来事であった」と取捨選択して教科書を作るという間接的な仕組みになっていると思います。
だから、政治家の人がまずいことをしても、政治家の人が歴史の教科書に直接影響をあたえることはできにくくなっていると思います。
これはこれでうまい仕組みで、やはり「学問というのは真実(普遍性)を追求するものである」という中立性をうまく保つ仕組みになっている。
話が少しそれましたが、だから、時代ごとに歴史の中身は変わってしまうわけです。「そんないい加減なものなら勉強する気にならない。いつ役に立たなくなるかわからない」
という気にもなりそうです。
しかし、そんな中で、今の日本、あるいは多くの国の歴史の教科書は、おそらくかなり「真実」というか、究極の歴史に近づいている、という気がします。
そういう意味では、今(ここ40~50年ほどでしょうか)歴史という科目を勉強している私たちは、歴史上かなりラッキーといえるかもしれません。
どうしてかといえば、先ほども書いたように、ブルボン家の価値基準の教科書であれば、ブルボン家の終了とともに、その教科書の中身も古くなってしまいます。
しかし、現代の価値基準は、 -これはおそらくここ100年未満でようやく人類がたどり着いた価値基準であり、かなり画期的と思うのですが- おそらく今後未来永劫二度と変わりえないようなものだからです。
「全人類の平和と幸福」
人間にとって、これ以上の価値があるでしょうか。
あるとすれば、人間を超えた全生物を含めたものになるくらいしか想像できません。
この価値を基準にして、人類がこれまでどんな変遷をたどってきたか、と記録したものなら、そうそう価値が古くなるとは思えないのです。
1945年までは日本では女性に参政権がなかったのですから、それ以前の歴史の教科書づくりにおける価値基準は、部分的にせよ「全男性の平和と幸福」をもとにしていた可能性が高い。
女性がいくら虐げられていても、それは重要なことではないとみなされていた。
だから、戦前の歴史教科書で今勉強しても、それは役にたたない。それどころか有害かもしれない。
しかし、少なくとも私が子供のころにはすでに、性別を超えた全人類の平和と幸福を前提に歴史の教科書が作られていたと思います。
だから、それからウン十年たった現代の角川の「日本の歴史」を読んでいても、大きな流れに違いはない(もっとも私も当時何を習ったか、かなり忘れているのですが)。
流れについていけるということは、昔習ったことが役に立っているということです。
ただ面白かったのは、以前も書いたように、「シャクシャインの戦い」とか琉球がどのように薩摩に支配されていったか、という、明らかに習った覚えのないことが書かれてあるのは目を引いた。
これは、むしろ、私の可能性説を支持する変化だと思いました。
「全人類の平和と幸福」という価値基準に照らしたとき、全人類にはアイヌの人や琉球の人も含まれているわけなので、いわゆる内地(北海道での本州の口語的呼び方)や本土(沖縄での本州の口語的呼び方)の「日本人」のことだけ書いていては日本史としては不十分である、ということになったからだと思います、
もし日本史の教科書が「日本人(狭い意味での日本人)の平和と幸福」という価値基準をもとに作られていたら、やはりシャクシャインの戦いは「のせなくてよい」、という判断に今もなっていると思います。
全人類、という目で考えると、Aさんだけ、Bさんだけ、というわけにはいかない。
全人類はどうであったか、ということになるから、どうしても、全人類(日本史なら日本に住む全部の人)に影響を大きく与えることになる、当時の社会構造とか政治体制の記載が増える、ということになります。
その意味では、明治維新というのは大事になる。文明開化、という技術的なことだけではありません。おそらくそれまでの貴族社会や武家政治は「全日本人の幸福、発展」という価値観(目標としてもよいかもしれません)から考えると、ものすごく限界が強かったと思うのです。過激な言い方をすれば、平和と幸福の可能性があるのは貴族か武士だけ、という前提だったわけですから。
明治維新で、それまでと比べものにならないくらい、格段に「全ての日本人の幸福」に向けて、可能性が広がったということになります(まだ男尊女卑ですが)。
だから、蛇足になりますが、前回私が例に出した「イワシクリームソーダ」が、もしも世界中に広まって、
「おお、このイワシクリームソーダを食べると非常に考えが穏やかになって戦争もする気にならないし、互いを思いやる気持ちも増すし、頭もさえていろいろ発明発見も飛躍的に進む。また、栄養価も優れていて保存もきくから世界中の食糧問題も解決された。しかも環境にやさしい」ということになったら、やはりそれは人類の可能性を広げたことになるので、歴史の教科書に乗るでしょう。
ただし、特定の種類の食べ物がその栄養素の特殊性によって直接そこまで人間の歴史に影響をあたえた例はないと思います。食べ物はあくまで体を維持する栄養素に過ぎない。つまり、「生物としての体と栄養」という自然科学の分野の話なのです。
特定の食糧が歴史(文系の分野・人の世界)に登場するのは、しいて言えば、飢饉に強いかどうかの関係で触れられるとか、江戸時代のように、貨幣として米が扱われたという特殊事情があるか、ぐらいでしょうか。あとは、食べ物ではないがアヘンなど、人間の脳に直接的に影響をあたえる薬物とか。
ここまでくれば改めて書くまでもありませんが、ナチス・ヒトラーが、歴史に記録されるのは当然というか、外してはならないわけです。
ヒトラーが単なる大量殺人者であれば、歴史には残らない可能性もある。子供向けマンガとかヒーローものの悪役にあるように、単純に世界征服とか人類を支配するとかだったら(しかし、支配した後どうするつもりなのでしょうね、ああいう悪者たちというのは。人間を働かせて、自分たちが贅沢するということなのでしょうか)、それは単純に「人類の敵」ということになるので、それはもう、どのような歴史書にも乗りにくいと思う。
しかし、(ここが表現として難しいのですが)ヒトラーは自分のやっていることが、(少なくともドイツにとって)正しい⇒人類の歴史にプラスの可能性を開くと信じていたと思うのですね。「俺は世界征服をして好き放題暮らすんだ」ということではないと思うのです。そして少なくともヒトラーの台頭を許してしまった社会の情勢とか仕組みとかがあった。そういうことが、ほんの100年弱前に起きてしまったので、ではそれが起きる可能性が絶対にないように、今後どうしたらいいのか、ということをしっかり考えなければならない、ということになります。それは原爆も同じ。
だから、ヒトラーは歴史に記録すべきだけど、単なる殺人鬼、たとえば切り裂きジャックなんて人は、歴史にのせることが難しいと言えます。
可能性説をとると、歴史の教科書の疑問点が解消しやすくなります(いや、そのために考えだしたのですが)。
たとえばアポロ11号の月面着陸。これは科学技術的には偉大なことのはずですが、可能性説からみると、「それが人類全体にとってどう利益になるのか」わからない、といっていいでしょう。少なくともまだわからない。将来月や火星に人類が住めるようになったら、その始まりはアポロ11号だった、ということで、歴史の教科書上の位置づけがはっきりするのでしょうが。まだはっきりはしていない。ということで、今の教科書でも扱いは小さいはずです。
また、逆なことも言えると思います。現代において人類にとって十分可能性が達成されたことは、教科書的には扱いが小さくなる。
例えば戦国時代の国ごとの境界線。
今や一つの日本という国になってしまった以上、覚える意味は薄いわけです。
境界線がどうあるべきか、どう決めるべきか、ということは、可能性としてはもう解決済みであるから、記録としては重要ではない、ということになる。
他にも、昔の通貨の単位とか、度量衡の単位もそうかと思います。
この辺りは、ルーツ説に近い。
ルーツ説とは、現代社会の問題がどうして起きているのかをさかのぼった流れを歴史とするのでしたね。解決済みのことはさかのぼる意味がないから、ルーツ説では重視しにくい。
可能性説としては、ある程度可能性が広がって、これ以上広げようがないということになったら、そこで終了です。
また、可能性説としては、「人類がどのように可能性を広げてきたか」ということですから、偶然の事故とか自然災害に対しては、いくら規模が大きくても、価値としては小さくなるように思います。
過去の「歴史的」な大地震や台風などの世界中で犠牲者の数は相当なものが少なくありません。しかしその扱いは歴史上は、比較的小さい。
たとえば、「9.11」と言えば、誰しもがアメリカで起きた同時多発テロを思い出し、そのショッキングな映像とともに、歴史的な事件と認めると思います。
ところが同じ年の2001年1月にインド西部地震というのがあって、この地震の死者は約2万人なのです。9.11は、約3千人。
年は違いますが、2004年のスマトラ島沖地震になると、死者・行方不明者23万人です。桁が1つどころか2つ違う。
スマトラ島沖地震はまだそのころの報道を覚えておられるかと思いますが、インド西部地震になると、日本人で知っている人は少ないと思います。
なぜ圧倒的に9.11の方が有名なのか。
「(失われた人命の)数の問題ではない」という理屈はあると思いますが、それでは9.11が歴史の教科書にのる説明にはなっても、インド西部地震がのっていない説明になっていない。
可能性説から考えれば、こうです。
アメリカは先進国であり、その大都市ニューヨークは、ある意味「人類の平和・幸福」の最先端をいっていたといえる。
今の段階での人類が幸福の可能性を追求した一つの答えなわけです。
都会が好きかどうかはともかく、ニューヨークとは、どの国でも「あんな都会がうちの国にも1個くらいほしいなあ」ということはあると思います(幸運にも日本には東京があります)。
そのニューヨークが、よその人間から憎まれ、野蛮な形で攻撃を受けた。また、そういうことが起こりえるという可能性に気づかされてしまった、ということが、歴史的に重大だ、という判断になるのだと思います。
これが例えば、(あまりよい想像ではありませんが)同じニューヨークが大型台風の被害にあい同じくらいの犠牲者を出した、ということだと、ここまで歴史上の事件として記録されるかは疑問です。「都会の意外なもろさ」という点ではふり返ることになるのでしょうが。
日本でいえば関東大震災で、死者は約10万人です。
しかし、やはりあの頃、大正のときの一番の歴史的事件かといわれると、ちょっと扱いが違うようです。
自然災害に対してどう安全な対策を行うのか、というのも、「人類の幸福・平和」の一分野としては大事ではあるのですが、あくまで一分野であるということになるのでしょうか。
それか、まだ課題としては未来に解決すべき分野であり、それよりは今は人間の作っている社会構造のほうがいろいろと喫緊に解決すべき課題が大きい、ということになるのかもしれません。社会構造のほうでいろいろ解決できてから(最近言われるSDGsですね)、その後、自然災害への対策が歴史上の大事な課題になるのかもしれません。
このように考えると、やはり歴史というのは、(5)で紹介したE.H.カーさんの言葉、
「歴史は現在と過去の対話である」
ということになるなあ、と思うのです。
現在の価値観、今なら「全人類が云々」という価値観を基準にして、その価値観あるいは目標に向け、これまでどのように人間が可能性を広げていったか。
現在の価値観からみて過去を取捨選択する作業といえます。
であれば、過去について同じ分量の事実が記載してあっても、その時代その時代の価値基準によって、「これは歴史の教科書にのせるべき」「これはいらない」という判断が異なってくると思われます。
そして、しつこいようですが、現代は、その価値基準がかなり普遍的なものになっているので、それにそって書かれた歴史もかなり普遍的(長持ちする)と考えることができそうです。
やれやれ、長くなりましたが、ようやくこれで歴史とはなにかについて、一息つけました。
ただ、ここまできても、最後にもう少し引っかかるところが出てきたのです。
<もう少し続く>