国語の話は、説明文にしても物語文にしても、どこか道徳的ですね。

これが中高にあがって論文とか小説になってくると、多少は不道徳な感じもしてきますが

(例えば有名な芥川龍之介の「羅生門」とか)。

 

どうして巷にはやる、もっと露骨な性悪な文がのらないのか。

「バトル・ロワイアル」のような小説とか。

ある種の差別を許容・擁護するような論文とか。

それとも、そういう文章は作品として質が落ちるのでしょうか?

しかし、それも無理があります。

道徳的でない作品は100%質が悪い、ということは難しいからです。

 

さて、私の考えでは、国語と道徳は明らかに違います。

ただ、あえて言えば、道徳に完全に反する文章はあえて避けているから、道徳のようにみえやすいだけです。

 

では、どうして道徳的でない文章をわざわざ避けるのか?

 

実は道徳的でない内容を避けるのは、国語だけではありません。

すべての教科がそうなのです。道徳にはなはだしく反しない範囲で教えるようにしているのです。

国語だからわかりにくくなっているだけです。

 

例えば算数。

「100円のミカンを3個、120円のリンゴを5個買ったらあわせていくらになりますか」

という問題。

これは、純粋に計算させる目的なら、もっと殺伐とした内容であってもいいはずです。

「100円のチョコを3枚、150円のアイスを5個万引きしたら、あわせていくら盗んだことになりますか?」

とか、

「デスノート(ちょっと古い・・・)に8時から12分ごとに一人名前を書き始め、

9時に20分休んでから今度は15分ごとに一人のペースで名前を書き、11時に終わりました。

さて、何人死んだでしょう」

とかでもいいわけです。

 

でも、そうしないですよね?

 

他の教科だって同じです。いや、もっとひどいかも。

理科や保健体育で、生殖を扱うではないですか。

その時、人の体の扱いは公序良俗に反しない範囲です。

生殖器の外観の写真など、絶対にのせません。

外観をのせずに、必ず載るのが精巣や卵巣、子宮の図です。あれでわかる人はいるのだろうか?
 

英語の長文や、短文の例文だって、やっぱり道徳の範囲内の内容です。

三億円事件の話なんて決して決して題材にならないでしょう。

 

でも、国語以外だと、そのほうがいいような気がします。

なぜなら、あまりに道徳、というか現在の社会常識と外れた内容だと、そちらの内容にひきずられてしまいます。

本来は算数を教えたいのに、「万引きって悪いことなんじゃないか」とか、そういう方向に気がそれてしまう。

性教育も今の形がまあ妥当でしょう。逆に写真などのせられたら、大人としては「これはまずいよ」ということになる。

いや、写真くらいはまじめにのせればいい気もするが・・いや、だめですね、子供だと、

「お前もこんなの(性器)ついてるんだろう」とか、クラス内でセクハラになる可能性が高い。

英語にしても、「(三億円)強奪」なんて単語は覚える優先度は低いと思います。

 

国語の場合、教える内容が内容なので、どうしても誤解を受けやすい。

とくに物語文・小説は、道徳の話として読もうと思えば読めてしまう。

というより、国語の場合は、評論にせよ小説にせよ、「話」として書かれています。文のつながりですね。

文と文のつながりで、一つのまとまったお話を作品としてみる、という形式で学ぶ。

道徳も、「話」を読んで、そこから学ぶ。

そういう意味では、学ぶ形式が似ている、ということが誤解を招きやすい一つの大きな原因かもしれません。

 

また、教える側・作られたテストなどにもまずい部分・誤解を受けるような部分があると思います。

国語で、「あなたが主人公の立場だったらどうしますか」というような質問をしたり。

感想文で「自由に感想を書いてよい」といいつつ、道徳的でない感想を書くとさりげなく注意を受けたり。

あるいは、テストの選択問題で、「道徳的に、これは×かな」と、道徳基準で正解や間違いを正解できてしまったり。

 

しかし、国語が何を教える教科かといえば、実は目的は割とはっきりしていて、大雑把に言えば

説明文・論文なら論理的な思考

物語文・小説なら状況や人間の感情などの描写

の正確な理解です。

そういうものを学べればいい。

 

それは、算数が数や図形に関わる法則を学ぶのと、なんら変わらない。

であれば、算数と同じで、扱う内容はできるだけ道徳的には無難に、無難に。

わざわざ過激な内容の論文をもってきて「論理的な思考」を学ばせる必要はない。

ある程度、普通の状況を設定した小説の中で、人間の感情描写の理解の仕方を学ばせればいい。

 

他の教科は、道徳の範囲内であって、積極的に道徳的ではありません。算数がわかりやすいので例に挙げますが、

万引きの計算問題がでないかわりに、ボランティアで何人の人を救ったとかいう問題もでません。

そういう意味では、道徳的といわれればそうだけど、消極的に道徳的というか。

 

国語も同じです。そこに道徳という意図を読もうとすれば、消極的に道徳的ではある

(過激な内容の作品は除外してある)から、「道徳的だ」といおうと思えばいえる。

しかし、積極的に、過度に道徳的な作品もないはずです。

 

ただ、もう少し書けば、あまりにも道徳にあわせたら、上記したように「道徳の判断基準」で問題を解くことができすぎてしまう恐れがある。

だから、評論にせよ、小説にせよ、多少はわかりにくい内容のものをもってくることはあります。

そのよい例が羅生門だと思います。こころもそうかもしれない。どう見ても道徳的ではないが、ひどく反道徳的ともいえない。

 

これをもってして、さらに深読みして、「文部省は中途半端な道徳教育をしようとしている」ということも、

言おうと思えば言えますが・・・

 

逆に、「道徳」という教科に国語教育をみようとするといいかもしれませんね。

道徳にでてくる話は、やはりそこは読みやすさを優先してあるので、文章的には平易で、やや退屈な書き方(文体)です。

これをもってして、

「文部省は道徳という教科を使って、平凡な文章に慣れ親しむような国語教育を目論んでいる」といったらどうなるか。

さすがに「それは考えすぎだよ」ということになると思います。

 

<まとめ>

・すべての教科は、それぞれの教科に固有の「学ぶ内容」をもっている

・「学ぶ内容(算数なら数や図形)」に集中してもらいたいから、道徳的な側面は現状の一般の社会常識の範囲にあわせる

・あわせる以上、道徳的にはならざるをえない。ただし、範囲内なので、積極的に道徳的となることはない

・いってみれば、消極的に道徳的な内容とならざるをえない

・国語も同じ。消極的に道徳的とならざるをえない。しかし積極的に道徳であろうとすることはない

・国語は学ぶ形式が道徳と同じで、一つのまとまり(メッセージ)をもった日本語の文章(テキスト)を読んで学ぶ、という形であることも、

国語と道徳の違いをわかりにくくさせている

・国語の場合、テスト問題などで「道徳的な判断基準」から正解や間違いを回答できることがあるのも、

「国語は道徳ではないか」という誤解を生むもとになっていると考えられる

 

<一応終了>